長くなって、午後九時ごろにそこを出ると、暗い空から又もや細かい雨がふり出して来た。前にもいった通り、番町辺は殊に暗いので、お銀は家から用意して行った提灯のひかりを頼りに、傘をかたむけて屋敷町の闇をたどってくると、向う屋敷の大銀杏が暗いなかにもぼんやりと見えた。
 お銀のとなりの家は今も空家になっている。おととしの暮れに一旦借手が出来たが、その人はどうも陰気でいけないとかいって、去年の六月に立去ってしまった。その後にも二、三人の借手が見に来たが、どれも相談がまとまらなかった。
「高い声では言われませんけれど、どうもお家賃が高うござんすからねえ。」と、車夫の女房はお銀にささやいたことがある。
 陰気でいけないのか、家賃が高いのか、いずれにしても隣りの貸家はその後もやはり塞がらなかった。しかしこの時代にはどこにも空家が多かったので、たとい小一年ぐらいは塞がらずにいても、誰も化物屋敷の悪い噂を立てる者もなかったのである。友之助もこの空家でお蝶に逢っていたことをお銀はあとで知った。
 その空家が眼のまえに近づいた時、お銀はひとつの黒い影が音もなしに表の格子から出て来たのを認めた。すこし不思議に思
前へ 次へ
全35ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング