てくれるでしょうし、あたし達もまあ、ちっとでも何とかしてやりたいと思っているんです」
 聞けば聞くほど林之助の胸は痛くなった。彼は飲んだ茶を吐き出したくなった。
 弥太郎もよほど気の毒になったのと、一つはお染に対する見得《みえ》もまじっているらしく、幾らかの銀《かね》を紙に包んで、お前の行くついでにこれをお里にやってくれと出した。林之助も見ていられなくなって、彼も紙に包んだものをお染の手へ渡した。
 しかし、この位のことでは済むまい。自分はなんとか特別の算段をしてやらなければなるまいと、彼は胸のなかでその銀《かね》の工面《くめん》を考えた。それにしても、ここに唯ぶらぶらしていてはどうにもならなかった。
 彼はいい加減の口実を作って、弥太郎にわかれてひとまず不二屋を出た。
「どこへ行こう」
 少なくも一両の金がほしいと彼は思った。その工面が付かなければ二|歩《ぶ》でも三歩でもいいが、旗本屋敷の中小姓ではその取り分も知れている上に、暇さえあれば遊びあるいて無駄な小遣い銭をつかい尽くしている今の彼は、食うにこそ不自由はないが、百文《ひゃく》でも余分のたくわえなどのあろう筈はなかった。しかもその小遣いの多くはお絹の貢物《みつぎもの》であった。彼もこの場合には、お絹のところへ無心に行きたくなかった。用人や給人にももう幾許《いくら》ずつか借りているので、この上に頼むわけにはいかない。質屋を口説くにしたところで、金目になりそうなものを持っていない。さりとて大小を質に置くわけにもいかない。林之助もこれには行きづまった。それでも彼はどうしても幾らかの金が欲しかった。無理な工面《くめん》をしても直ぐに外神田へ飛んで行って、泣き腫らしているお里の眼の前へ、その金をずらりと投げ出してやりたかった。
「こういう時に人間は悪気《わるぎ》を起すのだ。出来るものなら俺も定九郎でも極《き》めたい」
 彼はこんな途方もないことまで考えた。そうして、自分でぎょっとしてあとさきを見まわした。彼の足は行くともなしに両国橋を渡りかけていた。橋番の小屋で放し鰻を買って、大川へ流してやっている人があった。林之助はその財布を引ったくって逃げたかった。
 焦《じ》れてもあせってももう仕様がない。ひとの物に眼をかけるよりも、いっそお絹に借りた方が無事である。ほかに使う金と違って、これをお絹から借り出すのは何分にも心苦しく思われてならなかったが、今の林之助としてはこれが最もたやすい方法であった。お絹も病気で寝ている。そこへ押し掛けて金の無心をいうのはあまり無面目《むめんぼく》の仕方だとは思いながらも、まさか泥坊もできない以上は、このくらいのことは我慢するよりほかはないと、彼は思い切って橋を渡った。
「やあ、旦那」
 楽屋番の豊吉に不意に声をかけられて、林之助はびっくりしたように立ち停まった。豊吉は楽屋の合い間を見て、お絹さんの家へちょっと見舞いに行って来たと言った。
「お絹さんはどうもよくありませんぜ。なんだかここがひどく切《せつ》ないと言ってね」と、彼はあばらのあたりを叩いてみせた。
「困ったね」
「あなたもいずれお見舞いでしょうが、まあ、いたわっておあげなせえましよ。お絹さんも可哀そうですよ。そう言っちゃ何ですけれども、楽屋の者なんてみんな不人情ですからね。本気になって世話をしているのは、あのちっぽけなお君という子だけでさあね」
 林之助はだまって突っ立っていた。観世物小屋のそうぞうしい鳴物の音も、彼の耳へは響かなかった。豊吉はまたささやいた。
「それから、旦那。まあ当分、不二屋へはいり込むのをお止しなせえましよ。お絹さんはそればかりを苦にしているんですから。ここであんまり心配させると猶《なお》なおからだの毒ですぜ」
「なに、この頃はちっとも行きゃあしねえんだ。お辰やお花のおしゃべりが詰まらねえことを言うんだろう」と、林之助はいい加減にごまかしていた。
「ほんとうですぜ。あたしが先きへ死ねば、きっと林さんを迎いに行くって、お絹さんがそう言っていましたぜ」
 豊吉は嚇《おど》すように言った。林之助はさびしく笑っていた。
「まあ、行っていらっしゃい」
 楽屋へはいってゆく豊吉のうしろ影を見送って、林之助の足はまた重くなった。お絹に金を借りるのはどうしても義理が悪いように思われた。このまま引っ返そうかとも考えたが、お絹がそれほどの容体ならば直ぐに見舞ってやらねばなるまい。ここまで来てから引っ返すという法はない。金の話は別として、ともかくも顔をみせて来なければ人情がないと思い直して、彼は又まっすぐに路を急いだ。
 路地をはいって格子をあけると、お君が出て来た。
「あら、豊さんが引っ返して来たのかと思ったら……。さあ、どうぞ」
 お君は急ににこにこ[#「にこにこ」に傍点]して林之助をお絹の枕許へ導いた。お絹は半分死んだようになってうとうとと眠っていた。その寝顔には、このあいだ見たよりも更にげっそりと痩せが見えて、こめかみ[#「こめかみ」に傍点]の骨があらわになっているのも悼ましい病苦の姿をまざまざと描いているので、林之助は思わずほろり[#「ほろり」に傍点]となった。彼はお君にむかって病人の容体をきくと、やはり豊吉の話の通りであった。お絹はときどきに熱が昇って肋骨《あばら》が痛む、それがひどく切なさそうだとのことであった。
「君ちゃん」
 林之助は小声で彼女を呼んで、次の間の長火鉢の前へ行った。
「それで、お医者はなんと言っているね」
「お医者さまはよっぽど大事にしなけりゃいけないと言っているんです」と、お君は眼をうるませていた。
「そうかい」
 林之助は指さきで眼がしらを撫でると、お君はもうしくしく[#「しくしく」に傍点]と泣いていた。
「楽屋の者も看病に来てくれるかい。お花もお若も……」
 みんな出掛けに一度ずつは見舞いに来てくれるが、親身《しんみ》に看病してゆく者もないと、お君は頼りなげに言った。それでも豊吉はゆうべ来て、四つ少し前までいてくれたと話した。世間にはうわべばかりの親切が多いと、林之助はつくづく思った。しかし振り返ってみると、自分もその仲間ではないかとも危ぶまれた。彼は自分で自分の不人情を責めた。
「わたしは主人持ちで、思うように看病にも来ていられないからね。気の毒だけれども、姐《ねえ》さんの世話はお前ひとりに頼むよ。もし急に模様でも変るようなことがあったら、豊吉にたのんで私のところへ報《しら》せをよこしておくれ。豊吉はわたしの屋敷を知っているから」と、林之助はお君にささやいた。
 お君は目を拭きながらうなずいた。そうして、姐さんを起しましょうかと訊いた。
「いや、折角よく寝ているものを無理に起さない方がいい」
 二人は黙って火鉢の前に坐っていた。
 そのうちにお君は薬鍋を持ち出して来て、火鉢の上で煎じはじめた。林之助は黙って煙草をのみながら、渋団扇で火を煽いでいるお君の小さい手さきを唯ぼんやりと眺めていた。やがて鍋の蓋がごとごと[#「ごとごと」に傍点]おどると、強い匂いを含んだ薬のけむりが靡《なび》くように林之助の袖に白く流れた。お里の家にもこんな匂いが漂《ただよ》っているか、それとも線香のけむりが舞っているかと思うと、どっちを向いても涙を誘われることが多かった。
 林之助はことしの秋のわびしさに堪えられなかった。

     十二

 薬が煎じつまったので、お君はお絹を起しに行った。そっと揺り起されて、お絹は眼をとじたままで訊いた。
「林さん。まだそこにいるの」
 林之助はぎょっとして見返った。
「あたし、何だかうつつのように林さんが枕もとにいると思ったけれども、夢だったかしら」と、お絹は言った。
 林さんはさっきから来ているとお君が言うと、お絹は初めて眼をあいた。林之助も起《た》って枕もとへ行った。
「やっぱり来ていたのね。どうもそうらしいと思った」と、お絹はさびしくほほえんだ。「もうお前さん、来てくれやしまいと思ったのに……」
「冗談いっちゃいけない。いつも言うようだが、屋敷の方にも御用が多いので、夜でも昼でも勝手に出るという訳には行かねえからね。このあいだ来た時からきょう初めて外へ出たんだ。誰にきいても判る。そりゃ嘘じゃあねえ。なにしろいつまでも悪くっちゃ困ったものだ。精出して養生しねえよ」
「お前さん、たいへんやさしくなったね」と、お絹はまた笑った。「どうでもう長いことはないんだから、少しはいたわってくれるのもいいのさ」
「病いは気からというぜ。しっかりしてくれ」
 林之助はお絹を抱き起すようにして薬を飲ませてやった。そうして、まだ若いからだだから、どんな病気でも養生次第で癒《なお》らないことはない。気を弱く持たないで、ゆっくりと療治をしてくれと、子供をすかすように言って聞かせると、お絹も素直に聞いていた。
 しかし今度の病気ばかりは容易に癒りそうにも思われない。お前さんにほんとうの親切があるならば、屋敷から幾日かの暇を貰うか、それとも一生の暇を取るか、どっちにしても当分はからだをあけて、あたしの枕許へ来ていてくれ。その上でお前さんの看病がとどいて癒れば重畳《ちょうじょう》、万一これぎりに死んでも思い残すことはない。あたしはどうかしてお前さんをもう一度自分の手許へ引き戻そうと念じているうちに、とうとうこんな病気になってしまった。せめて死にぎわにはお前さんの手から一杯の水でも飲ませて貰いたいと、お絹はしみじみ言った。
「林さん。いやかい」
 まぶたは押しつぶしたように落ち窪んでいても、餌《えさ》を狙うような蛇の眼が底の方に光っていた。今のやせ衰えたお絹の顔にはそれが一層ものすごく見えたので、林之助は今更のように身がすくんだ。彼はどうしても忌《いや》とは言われなくなった。あとはともあれ、この場では一応承知したと言わなければならないように思われた。
「よし、よし、判った。しかし武家奉公というものは面倒なもので、親のかたきを探しに出るからといって、きょうが今日すぐに暇《ひま》をくれるわけのものじゃあねえ。長《なが》の暇《いとま》を貰うにしても今すぐという訳にはいかねえから、屋敷にいる間はなんとか都合して毎日見舞いに来る。さっきもお君に頼んで置いたんだが、急な用ができたら直ぐに豊吉を迎いによこしてくれ。いつでも直ぐに飛んで来るから。ね、それでいいだろう」
「欺《だま》すんじゃあるまいね」と、念を押してお絹は納得《なっとく》した。
 彼女はお君に、もう何どきだと訊いた。さっき八幡鐘の七つを聞いたとお君が言うと、それでは林さんの好きな蒲焼でもあつらえろとお絹は寝ながら指図した。なに、そうはしていられないと林之助は言ったが、さすがに振り切って起ちかねていると、お君はすぐ近所の鰻屋へ駈けて行った。
「林さん、新しい袷なんぞ着て粧《めか》しているんだね」と、お絹は仰向いて男の姿をながめた。
「むむ、これか」と、林之助は袷の膝をなでた。「そら、いつか話したことがあるだろう。この四月に新しく拵《こさ》えて、一度も手を通さねえで蔵入《くらい》りにした奴さ。秋風が立っちゃあ遣り切れねえから、御用人を口説いて二歩借りて、これと一緒に羽織や冬物を受けて来た」
「不二屋へ運ぶのが忙がしいから、身のまわりなんぞには手が届かねえのさ」と、お絹は笑った。「御用人さんに二歩借りて、それをどうして返すの」
「都合のいい時に返すのさ。まさか利も取るめえ」と、林之助も笑った。
「おまえさんにも都合のいい時があるのかしら。ちょいと、お前さん。この蒲団の左の下から紙入れを出して頂戴な」
 言われた通りに林之助は紙入れを取って渡すと、お絹はそのなかから二歩を出した。
「暇を貰おうという矢先きに、借りなんぞあっちゃ拙《まず》いから、よくお礼をいって、御用人に早く返しておしまいなさいよ」
「だが、こっちも病気で物入りの多いところだろう」と、林之助は手を出しかねて、もじもじ[#「もじもじ」に傍点]していた。
「なに、こっちは又どうにかなるから」
 二歩の銀《かね》を手に握って、林之助は気の毒でもあり、
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