小さい二階家があって、格子と台所とが列んでいた。林之助はそっと格子をあけると、内では鈴の付いた鋏《はさみ》を置く音がきこえて、入口の障子がさらりとあいた。うす暗い行燈の灯の影をうしろにしているので、出て来た人の顔はこっちによく見えなかったが、「あら」と可愛らしい女の声が彼女であることを林之助はすぐ覚った。お里はいそいそとして、この若い侍を内へ招じ入れた。二階家といっても、俗にいう行燈建《あんどんだて》で、上下ともにひと間ずつしかないらしく、階下《した》の六畳には古いながらもよく拭き込んだ長火鉢を据えて、茶箪笥が行儀よく列んでいた。小さい神棚には燈明の灯が微かにゆらめいていた。
「こんな穢《きたな》いところで……」と、お里は恥かしそうに言い訳をしながら、綴《と》じくっていた小切れを片付けて薄い座蒲団を出した。林之助は長火鉢の前に坐らせられた。お里は茶をいれて、振出しの箱のなかから金平糖《こんぺいとう》などを出した。
「それでもよくいらして下さいましたね」
 お里は嬉しそうに言った。おふくろは近所に百万遍《ひゃくまんべん》があって、あかりが点《つ》くとすぐに出て行ったから、四つ過ぎでなければ帰るまいとのことであった。
 相手が迷惑そうな顔を見せないので、林之助も腰を落ち着けてゆっくりと話しはじめた。しかしこういう家《うち》へふらりと遊びに来て、先方の茶や菓子を食って唯べらべら[#「べらべら」に傍点]としゃべっているほどの野暮でもないので、林之助は鮓《やすけ》でも取ろうと言った。ついでに酒を買って貰いたいといって、幾らかの銀《かね》を出した。
「降るのに気の毒だね」
「なに、隣りの子に頼みますから」
 隣りの女の子に使いをたのんで、お里は鉄瓶の下に炭をついだ。小降りにはなったらしいが、雨はまだしょぼしょぼと降っていた。百万遍の鉦らしいのが雨の中にきれぎれに聞えた。
「秋の雨はなんだか陰気で寂しゅうございます」と、お里は錦絵の花魁を貼ったうしろの壁を見かえりながら言った。
 自分はいったい陰気な質《たち》であるが、こういう日にはなんだか引き入れられるように気が滅入《めい》って、自然に悲しくなるなどと話した。きょうの花火がお流れになって、お前ばかりでない、みんなも陰気な顔をしているだろうなどと、林之助も言った。話はだんだんに暗い方へ糸を引かれて行って、このあいだの晩の続き話のように、お里は自分の頼りない身の上を語り出した。親ひとり子ひとりでほかには力になってくれる身寄りもないと、彼女は訴えるように言った。殊に母は病身であるから、いつどんな悲しいことが落ちかかって来るかも知れないなどと、心細いように言った。
 話はいよいよ沈んで行った。
 うす暗い心持ちでお絹の家を出た林之助は、ここで又こんな滅入った話を聞かされるのは辛かった。彼は陽気に冗談の一つも言って見たかった。店にいる時もおとなしいという評判の娘ではあるが、自分と二人ぎりの場合はいよいよおとなしい、むしろ陰気なくらいに沈んでいるのが、林之助にはなんだか物足らなかった。しかし、いかにおとなしいと言っても、もともとが水茶屋《みずぢゃや》の女である以上、ひと通りのお世辞や冗談ぐらいが言えないのではない。それが自分に対してはいつもまじめ過ぎるほど堅気らしく附き合っているのは、さすがに通り一遍の客とも思っていないのであろうかというような、一種のうぬぼれも林之助をそそのかした。又そればかりでなく、心の弱い彼としては、こうした涙の多い話はうわの空で聞き流していることは出来なかった。彼は次第にその話の底の方まで引き入れられて、おのずと涙を誘い出された。
 そのうちに鮓が来た。お里はすぐに燗の支度をした。自分はちっとも飲めないと言ったが、それでも無理に二、三度は猪口《ちょこ》を受取った。林之助も飲んだ。酒の酔いが若い二人を誘って、だんだんに明るい華《はな》やかな方へ連れ出した。林之助も軽い冗談をいった。お里も袂を口に掩いながら笑った。彼女はもう酔ったといって、夢見る人のようにうっとりとしていたが、雨の音がざっとまた強くなったので、お里は縁側へ出て、まばらに閉めてあった雨戸をばたばた[#「ばたばた」に傍点]と閉め切ってしまった。林之助も起って手伝ってやった。
「どうも済みません」
「なあに、ここの家《うち》へお婿に来たんだから」と、林之助はお里の肩を軽くゆすって笑った。
 どこかで雨漏《あまも》りがするらしく、天井の裏でときどきにしずくの落ちる音がほとほと[#「ほとほと」に傍点]と聞えるのも寂しかった。紙のすすけた行燈の灯は陰ったようにぼんやりと暗かった。二人はしばらく黙って火鉢の前にむき合っていた。
 四つ少し前に林之助は帰ったが、阿母《おふくろ》はそれまで帰って来なかった。今夜も林之助は幾らか包んで置いて帰った。

 林之助は蒲団の上で、これだけのことをそれからそれへと繰り返して考えた。お里と自分とは、もう切り放すことのできない羇絆《きずな》が結び付けられたことを観念すると同時に、彼は言い知れぬ悔みと悩みとにひしひしと責めつけられた。こういう場合に大抵の人が試みるように、彼もそれを酒の科《とが》にかずけて、自分の重荷を軽くしようと努めた。しかしそんな卑怯なことで、自分の胸が安まろうとはさすがに思われなかった。
「おれは意気地がないな」と、彼は枕をつかんで自分をあざけった。
 自分のふるい友達のなかには三人五人の堅気の女をだまして振り捨てた者もあった。吉原の女郎を欺して住み替えさせて、その金で芸者と駈落ちをした者もあった。しかし、自分はゆく先きざきで恋をあさって歩くような人間ではなかった。あとにもさきにもたった一度お絹と恋に落ちて、その罠《わな》から抜け出すことができないで、今ももがいているではないか。それがまた別の新しい罠にかかって、更に首を絞められてどうするのか。彼はつくづく今夜のおのれを悔まずにはいられなかった。そうして、あまりに正直に生まれ過ぎたおのれを歯がゆく思わずにはいられなかった。宵に軍鶏屋《しゃもや》を出たときの勇気と大胆とは、今の林之助の頭からは吹き消したように消え失せていた。
「こうなればお絹を捨てるか、お里にそむくか」
 二つに一つに決めてしまわなければ、彼は一日も安心していられないように思われた。両手に桃桜などという洒落れた詞《ことば》は、林之助にはいっさい不通用であった。彼は桃か桜か、そのひと枝を大事に守っていなければ気が済まなかった。ものすごい蛇の眼を恐れていながらも、まったくお絹を見捨て得なかったのも、こうした正直な心のわずらいであった。世間普通の人の眼から見たらば、多寡が蛇つかいの女と水茶屋の女と、そんな女の二人や三人がなんだと言うかも知れない。それができないのを林之助はくやしく思った。腑甲斐《ふがい》なく思った。意気地なしだとも思った。彼はそこに自分の美しい魂を見いだし得ないで、かえって自分の馬鹿正直さが情けないようにも思われてならなかった。
 それでも彼はやはりその美しい魂に支配されていた。どちらかの女に対して自分の罪を詫びて、あきらかに一人を捨てて一人を取ろうと決心した。しかも、これまでの行きがかりから言うと、彼はどうしてもお絹を裏切ることはできなかった。お絹の呪いも怖ろしかった。
「なぜ今夜お里を訪ねたろう」
 どう思い直しても、彼は今夜のおのれを悔まずにはいられなかった。彼の涙は枕の上にはらはら[#「はらはら」に傍点]とこぼれた。
 彼はまぼろしのように眼の前にあらわれて来たお里のおとなしやかな顔にむかって、手をあわせて幾たびか詫びた。
 彼を安らかに眠らすまいとするように、雨は大きい屋根の瓦を夜通し流れて、軒の大樋《おおどい》に溢れるような音を立てていた。

     十一

 それから三日ばかりは御用|繁多《はんた》で、林之助は屋敷を出られなかった。九月にはいって晴れた空がつづいた。きょうは夕方から深川に発句《ほっく》の運座《うんざ》があるので、まずお絹の病気を見舞って、それから深川へまわろうと、彼は午《ひる》さがりに屋敷をぬけ出した。
 往来の人はみな袷《あわせ》を着ていた。林之助も新しい袷を着た。澄み切った青い空に秋の風が高く吹いて、屋敷町には赤とんぼの群れが目まぐるしいほどに飛び違っていた。鷹匠《たかじょう》が鷹を据えて通るのも、やがて冬の近づくのを思わせた。町へ出ると、草鞋《わらじ》を吊るした木戸番小屋で鰯を買っているのが見えた。
 柳橋の袂で林之助は友達に逢った。彼はやはり浅草の或る旗本屋敷の中小姓を勤めている男で、これも今夜の発句の会へ出る一人であった。彼は梶田弥太郎といって、林之助よりも三つばかり年長《としかさ》であった。
「やあ。どこへ」と、二人は立ち停まった。今夜の発句の話なども出た。弥太郎はこれから両国へ遊びに行こうと言った。ゆくさきは列び茶屋に決まっているので、林之助はすこし躊躇した。お里に逢うのはなんだか気が咎めるようであった。
「え、お里の顔でも見に行こうじゃないか」と、弥太郎は言った。「それとも、御用かい」
 着流しの林之助は御用に行くとも言われなかった。彼は断わり切れないで一緒に引き摺られてゆくと、不二屋の軒提灯は秋風にゆらめいていた。二人はずっと店へはいって床几に腰をかけると、これも顔なじみのお染という若い女が愛想よく茶を汲んで来たが、茶釜の前にもお里のすがたは見えないので、林之助は一種の失望を感じた。
「きょうはどうしたい、お里は……」と、弥太郎も的《あて》がはずれたような顔をして訊いた。
「里《さあ》ちゃんはもう少しさっきまでいたんですけれど、おっかさんが急病だといって、家《うち》から迎いが来たもんですから、びっくりして帰ったんですよ」
「おふくろが急病……」と、林之助も驚いた。「さっきまでここにいたくらいじゃあ、ほんとうの急病なんだね」
「ええ。けさまで何ともなかったんだそうですがね。どうしたんでしょう。迎いの人の口ぶりじゃあもういけないらしいんですよ」と、お染も顔をしかめて言った。「その話を聞くと、可哀そうに里ちゃんはわあっ[#「わあっ」に傍点]と泣き出して……。あの子ふだんから親孝行なんですからね。いよいよいけないとなったら、さぞがっかりするでしょう」
「そりゃあ気の毒だね」
 弥太郎もさすがに顔の色を陰らせた。林之助は茶碗を持っている手さきがふるえた。病身とはかねて聞いていたが、現に先月末の花火の晩には近所の百万遍の数珠《じゅず》を繰りに行ったお里の母が、きょう俄かに死にそうな大病に取りつかれるとは、あんまり果敢《はか》ないように思われた。その母の枕もとに親孝行のお里が取り乱して泣いている、いじらしい姿もすぐに彼の眼にうかんだ。
「虫が知らすとでも言うんですかしら。里ちゃんはこの二、三日なんだかぼんやりしていて、唯うっとりとうしろの川の水を眺めていたりして、人が声をかけても返事をしないこともあるんですよ。今思うと、やはりこんなことがある前兆《しらせ》だったのかも知れませんね」と、お染はまた言った。
 お里がこの二、三日物思わしげに暮らしたのは、母に別れる前兆であったろうか。なんにも知らないお染が一途《いちず》にそう解釈するのは無理もなかった。しかし林之助は、もっと深い意味でこれを考えさせられた。あの以来、ぼんやりするほど思いつめているお里を、自分はどう処分しようと考えているのか。彼は我ながらぞっ[#「ぞっ」に傍点]とするほどに自分の酷《むご》たらしい心を恐れた。
「里ちゃんの家は都合がいいのかね」と、彼は知れ切ったようなことを訊いてみた。
 お染も知れ切った事をいうような顔をして、すぐ打ち消すように答えた。
「どうでこういうところへ来ているくらいですもの、都合のいいことがあるもんですか。ほかに頼りになるほどの親類もないそうですから。阿母《おっか》さんの病気が長引くようなら勿論のこと、今すぐに死なれても第一にお葬式《とむらい》にも困るくらいでしょうと思うんですよ。ここのおかみさんも幾らか面倒をみ
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