嬉しくもあった。きょうは幾らかの無心をいうつもりで来たのであったが、このありさまではとても言い出せないと彼は諦めていると、その銀が偶然手に入って、彼は拾い物をしたように嬉しかった。
屋敷の用人から二歩借りて、袷や冬物の質請けをしたのは嘘ではなかったが、それは今すぐに返さないでもいい。この二歩があれば、お里の家へも顔出しができる。こう思うと、彼は今直ぐにもここを飛び出したくなった。今まではおちついて腰を据えていた彼も、銀をつかんで急に気が変った。お里のことも急に気にかかって、彼はなんだかそわそわして来た。しかしお君はまだ帰らない、あつらえ物もまだ来ない。殊に銀を貰ってすぐに逃げて帰るのも気が咎めるので、彼はおちつかない心持ちを無理に押し付けて、質《しち》に取られた人のようにおとなしく坐っていた。
やがてお君は帰って来た。どうしてかきょうは注文が立て込んでいるので、鰻の出前はすこし手間が取れると言った。林之助はそれをいいしおに、自分は日が暮れるまでに屋敷へ帰らなければならないから、手間が取れるならばいっそ断わって来てくれと言った。
「飛ぶ鳥はあとを濁《にご》すなということもある。屋敷にいるあいだは几帳面に勤めて置かなければいけねえ」
「それもそうかも知れない」
お絹も別に忌《いや》な顔をしなかったので、お君は引っ返して鰻屋へ断わりに行った。その帰るのを待ちかねて林之助も帰り支度をした。
「じゃあ、あしたまた来るぜ。君ちゃん、いいかい。頼むよ」
路地を出ると、日はもう暮れかかっていた。お君は路地の口まで送って来て、姐さんの容体《ようだい》がどうもよくないから、あしたもきっと来てくれと縋《すが》るように言った。その涙ぐんでいる顔が林之助にはいじらしく見えた。彼はきっと来ると約束して別れた。
橋の袂へ来ると、芝居小屋では打出しの太鼓がきこえた。早く閉まった観世物小屋では、表の幟を取り卸しているのもあった。焼いたとうもろこしを横ぐわえにして、なにか大きな声で唄いながら通る中間《ちゅうげん》もあった。まだすっかりは暮れ切らないのに、真っ白な白粉の顔を手拭にかくして石置場の方へ忍んでゆく若い女の群れもあった。そのあとを追っかけて、中間たちが又なにか呶鳴っていた。
こうしたみだらな夕暮れの混雑に眼なれている林之助は、右も左も見向きもしないで、急ぎ足に橋を渡った。川面《かわも》には薄い靄が流れて、列び茶屋にはもうちらちら[#「ちらちら」に傍点]と提灯の火が揺らめいて見えた。その華やかな灯のなかに、今夜はお里を見いだすことが出来ないのだと思うと、彼の足は神田の方へむかってますます急がれた。
酒屋の路地へはいって、格子の前に立つと、入口の障子は半ば開かれて、線香の匂いが狭い沓脱《くつぬぎ》にまで溢れていた。ここはもう薬の匂いではなかったので、林之助は急に暗い心持ちになった。
案内を乞うと、女の児が出て来た。それはこの間の晩に使いを頼んだ隣りの娘らしかった。
内へあがると、やはり近所の人らしいおかみさんや娘が四、五人ごたごた[#「ごたごた」に傍点]坐っていて、逆さに立てまわした古い屏風のかげからは線香の煙りがうず巻いて流れていた。その屏風のそばに蒼い顔のお里がしょんぼりと坐っていたが、彼女は島田《しまだ》をほどいて銀杏返《いちょうがえ》しに結い替えているので、林之助はちょっとその顔が判らないほどに寂しく見えた。
ひる前には隣りのおかみさんが話しに来た。その時までは阿母《おふくろ》も別に変った様子もなかった。胸が少しせつないようだと言っていたが、やはりいつものように火鉢の前で襤褸《ぼろ》とじくりなどをしていた。ひる飯を食ってしまって、台所へ茶碗小鉢を洗いに出ると、彼女はだしぬけに倒れた。その物音に驚かされて駈けつけて来た時には、彼女はもう生きている人ではなかった。それからすぐに両国へ使いをやって、お里はころげるように駈けて帰ったが、とても間に合う筈はなかった。そんな話をして、お里は声を立てて泣いた。
林之助はかの二歩を紙につつんで出した。もっとどうにかしたいのだが思うように行かないから、差しあたりはこれで堪忍してくれといった。お里は頂いて、それを隣りのおかみさんに渡した。おかみさんが葬式万端の世話を焼いているらしかった。おかみさんは受取ってすぐに仏前に供えたが、二歩の重みは彼女《かれ》の注意を惹いたらしく、今更のように林之助とお里の顔をじろじろと見くらべていた。こうした家へ大小をさした人が悔みに来るのは、すこし不似合いであると見えて、ほかの女たちもみな林之助に眼をあつめて、今までべちゃべちゃしゃべっていた者も一度に口を結んでしまった。
ここに長くいてはみんなの邪魔になると、林之助もさとった。どうで周囲に大勢の人がいては、お里と打解《うちと》けて話をする機会もあるまい。かたがた今日は早く帰る方がいいと思って、彼は早々に暇乞《いとまご》いをしてここを出た。
路地の出口で菓子売りのお此に逢った。お此もこの近所に住んでいるので、これからお里の家へ悔みに行くのだと言っていた。
「旦那さまもお里さんのところへいらしったんですか」と、お此は子細らしく訊いた。
隠すこともできないので、林之助も正直に答えると、お此は危ぶむようにささやいた。
「あなた、お里さんのところへ行くのはお止しなさいましよ。飛んだことが出来ますよ」
このあいだ両国の楽屋で蛇責めに逢ったことを、お此は身ぶるいしながら話した。
「あの時のことを考えると今でもぞっ[#「ぞっ」に傍点]とします。わたしはもうそれぎりあの楽屋へは商《あきな》いにまいりません。お絹さんは、もしこの後も相変らず不二屋にあなたの姿を見掛けるようなことがあると、この蛇を持ってお里のところへお礼に行くと、こう言うんです。それですもの、もしあなたがここの家《うち》へ来たなんていうことが知れたら、そりゃあどんな騒ぎが起るか知れませんよ。第一お里さんが可哀そうですからね。蛇なんぞ持って来られた日にゃあ、あの子は目をまわして死んでしまいましょう」
林之助も息をつめて聞いていた。
十三
「困った奴だ」
林之助は口のうちで幾たびか罵った。
お此と別れて屋敷へ帰る途中で、彼はお絹を憎むの念が胸いっぱいに溢れ切っていた。彼はお絹があまりに執念ぶかいので憎くなった。罪もないお里をそれほどに苦しめようとするお絹の妬み深い心には、どう考えても同情することが出来なくなった。一種の意地と、一種の江戸っ子かたぎとが彼をあおって、彼は弱いお里をあくまでも庇ってやらなければならない、それが男の役目であるというようにも考えはじめた。
先月までの林之助はともあれ、今の彼はお絹に対してあまり立派な口をきけた義理でもないのであるが、彼はもうそんなことを考えている余裕がなかった。お此を蛇責めにして、さらにお里を蛇責めにしようとするお絹の残酷な復讐手段に対して、彼の胸には強い反抗心が渦巻いて起った。彼はいっそお絹を殺してしまいたいほどに腹が立った。
また一方から考えても、自分はもうお里を振り捨てることの出来ない破目になって来た。今朝まではなんとかして、お里に詫びて、いっそ綺麗に手を切ろうかとも考えていたのであるが、そのお里の母は死んで、彼女はかねて口癖のように果敢《はか》なんでいる悲しい頼りない身の上にいよいよ沈んでしまった。それを今さら無慈悲に突き放すことが出来るだろうか、お里が素直に承知するだろうか。おとなしい彼女は泣く泣く承知するかも知れないが、そんな弱い者いじめをして仁科林之助、江戸っ子でござると威張っていられるだろうか。林之助は眼にみえないきずながお絹の蛇以上に自分を絞め付けていることをつくづく覚った。
そんなことを思い悩んで、林之助は今夜も眠られなかった。夜があけると、今朝も拭ったような秋晴れで、となり屋敷の大銀杏の葉が朝日の前に金色《こんじき》にかがやいていた。高い空には無数の渡り鳥が群れて通った。その青空をみあげているうちに、林之助の頭はまた新しくなった。
ゆうべは一途《いちず》にお絹を憎んでいたが、罪はやはり自分にある。こうした関係をいつまでも繋いでいたら、お絹もお里も自分もますます深い苦しみの底へ沈んでゆくばかりである。気を弱く持っていては果てしがない。どうしてもここでお里に因果をふくめて赤の他人になるよりほかはない。無慈悲のようでもいっそ一日も早い方がいい、一寸《いっすん》逃がれに日を延ばしてゆくほどいよいよ二進《にっち》も三進《さっち》もいかないことになる。
彼女はお里の母の初七日《しょなのか》でも済んだ頃にもう一度その家へたずねて行って、おだやかに別れ話をきめようと思った。自分はそれほど無慈悲な男でもないが、こうなったらどうも仕方がないと、林之助は悲しく諦めた。こうした諦めを付けるまでには、彼の眼からは男らしくもない涙が幾たびかにじんだ。
その日は御用があって、林之助はどこへも出られなかった。きょうもきっと来てくれとお君に口説かれたことを思いながらも、彼はどうすることも出来なかった。彼はお絹の怨みを恐れながらも、とうとう両国橋を渡る機会がなかった。あくる日もまた忙がしかった。彼は白金や渋谷の果てまで使いにやられた。この頃は意地の悪いように屋敷の用があるので、彼はすこし焦《じ》れったくなって来た。なるほどお絹のいう通り、屋敷奉公をやめた方が気楽かも知れないと思うこともあった。
しかし林之助は大小を捨てて町人になろうとは思わなかった。お絹の縁に引かれながらも、手ぶらでいつまでも彼女の厄介になっていたくもなかった。屋敷をやめれば忌でも応でもお絹のふところへ戻らなければならない。朝晩におそろしい蛇の眼と睨み合っていなければならない。林之助は第一にそれを恐れていた。やはり今のように遠く懸け離れていて、そうして時どきに逢っているのが一番無事であると信じていた。
九月八日の午前《ひるまえ》に、林之助はちょっとの隙きを見て両国へ行った。あしたは重陽《ちょうよう》の節句で主人も登城しなければならない。その前日の忙がしい中をくぐりぬけ、彼はもう堪まらなくなって、屋敷を飛び出したのであった。
両国の秋はいよいよ深くなって、路傍《みちばた》には栗を焼く匂いが香ばしく流れていた。しかしここの名物の観世物小屋の野天商人《のでんあきんど》が商売をはじめるのは午《ひる》過ぎからで、午まえの広小路は青物の世界であった。夜明けから午までは青物市がここに開かれるので、西両国には荒筵を一面に敷きつめて、近在の秋のすがたを江戸のまん中にひろげていた。
霜に染められたかと思う川越芋の紅いのに隣り合って、秋茄子の美しい紫が眼についた。どこの店にも枝豆がたくさん積んであるので、やがて十三夜の近づくのが知られた。これから神明《しんめい》の市《いち》の売物になろうという生姜《しょうが》の青い葉や紅い根には、白い露と柔かい泥とが一緒にぬれてこぼれていた。江戸じゅうの混雑を一つに集めたかと思われるような両国にも、暮れゆく秋の色と匂いとが漲《みなぎ》っているように見えるのが、このごろの薄寒い朝の景色であった。その青物の露を蹈《ふ》んで、林之助は橋を渡った。
「あら、いらっしゃい」
格子をあけると、お君はすぐに駈け出して来た。うす暗いお絹の枕もとには楽屋番の豊吉も坐っていた。前芸のお若もしょんぼりと坐っていた。いつも留守番を頼むという隣りのお婆さんもぼんやりと屈《かが》んでいた。どことなしに薬のけむりがしめって匂っていた。
「おや、いらっしゃい」と、豊吉は振り返ってまず声をかけた。そうして、すぐに入口へ起って来た。
「旦那。いけませんぜ。あれほど私が言って置いたのに……。あなたはどうも不実ですぜ。きょうはよっぽどお迎いに出ようと思っていたんですが……」と、彼は林之助をたしなめるように言った。
「いや、なにしろ御用が忙がしいんでどうもこうもならねえ。あしたは節句という忙がしいなかを、きょうはようよう抜け出して来たくらいなんだか
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