ら、まあそう叱って貰いたくない」と、林之助は苦笑《にがわら》いをした。「そうして、どうだね、病人の容体は……」
豊吉は顔をしかめて首を振った。
「悪くなるばかり」
「困ったもんだ。医者もあぶないと言っているかね」
「はっきりとは言わねえが、もう匙《さじ》を投げているらしいんですよ。なにしろ咳が出て、胸から肋骨《あばら》が痛んで熱が出て……。どうもこの秋は越せまいと思うんです。わたくしも長らくお世話になった姐さんですが……」
もう今にも死ぬもののように豊吉は溜め息をついていた。こうなったらいっそお絹が死んでくれればいいというような考えが、林之助の頭を稲妻のように掠めて通った。
彼はだまって内へはいると、お若もお君もお婆さんもみな眼を赤くしていた。林之助は自分の不人情が急に恥かしくなって、肩身が狭いような心持ちで病人の枕もとにそっと坐ると、お絹はもう正体がなかった。もう誰の見境いもないらしかった。時どきに苦しそうに胸をかかえながら、彼女は髪を振り乱して、衾《よぎ》を跳ねのけて、夢中で床の上に起き直ろうとしてまた倒れた。と思うと、溺れた人が何物をか掴んですがろうとするように、彼女は痩せた手をのばして寝床の上を這いまわった。それが傷ついた蛇ののたくっているようにも見えて、林之助にはものすごかった。
彼はいよいよ気が咎めてならないので、まわりの人たちにむかって頻りに自分の無沙汰の言い訳をした。屋敷の御用の忙がしいことを話した。主人が節句の登城の前日に、たとい半※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《はんとき》でも屋敷をぬけてこうして見舞いに来たことが、彼の不実でないという十分の証拠にはならないらしく、どの人も彼に対して冷たいような眼を向けていた。
「なにしろ、わたしも主人持ちだから、毎日見舞いに来るわけにもいかない。まあ、皆さん、なにぶん願いますよ」と、林之助はみんなにくれぐれも頼んでいた。
まったくきょうは忙がしいからだであるので、ゆっくりとここに坐り込んでいることを許されなかった。彼は小半※[#「日+向」、第3水準1−85−25]ばかりで病人の枕もとを起った。
帰るときに豊吉が格子の外まで送って出た。
「旦那、ようござんすかえ。姐さんは九死一生という場合なんですぜ。お屋敷の御用は仕方がありませんが、ほかの何事をおいてもここへ来なけりゃあ義理が済みませんぜ。どうで死ぬもんだからなんて薄情なことはしっこなしですぜ」
林之助はだまってうなずいた。
「不二屋のお里のおふくろが死んだそうですね」と、豊吉はまた言った。
どこか急所をえぐられたように、林之助ははっ[#「はっ」に傍点]と顔色を変えて、すぐには返事が出来なかった。
十四
林之助が帰ると、やがて午《ひる》が近づいた。青物市ももうそろそろ引ける時刻になったので、観世物小屋に用のある人たちは一度に起《た》った。豊吉とお若は連れ立って帰った。お絹はもがき疲れてしばらく昏々《うとうと》と睡っていた。隣りのお婆さんもこの間に家の用を片付けて来たいといって帰った。
お絹の枕もとにはお君が一人さびしそうに坐っていたが、ことし十五で外の恋しい彼女は、やがて病人の寝息をうかがって、音のしないように格子をあけて、そこから半身を出して何を見るともなしに表を覗くと、長い往来は露地の幅だけに明るく見えて、そこにはいろいろの秋の姿をした人が廻り燈籠のように通った。※[#「魚+是」、第4水準2−93−60]《しこ》を売る声もきこえた。赤とんぼを追いまわる子供の黐竿《もちざお》も見えた。お君はうっとりとそれを眺めていると、内からお絹の弱い声が聞えた。
「君ちゃん、君ちゃん。いないの」
「はい」
はっきりと返事をして、お君はあたふたと内へ駈け込むと、お絹はいつか眼を醒ましていて、薬をのませてくれと言った。まだ少し早いと思ったが、お君はすぐに薬鍋を温めにかかった。粥《かゆ》をたべるかと訊いたら、お絹は黙って首を振った。
托鉢《たくはつ》の坊主が門《かど》に立って鉦《かね》を叩いたので、お君は出て行って一文やった。薬が煮つまって枕もとへ持ってゆくと、お絹は苦しそうにひと口すすったが、それはほんの喉を湿《しめ》すに過ぎないらしかった。
「君ちゃん。あたし少しお前に言って置きたいこともあり、頼んで置きたいこともあるんだよ」と、お絹は案外はっきり言った。
これほどしっかりと口が利けるようならば、姐さんも少しよくなったのかしらと、お君はなんだか頼もしいようにも思われた。
「君ちゃん、お前にはいろいろ世話になったけれども、今度はあたしももういけないよ。あたしも覚悟しているよ」
お君は涙ぐんで聞いていた。
「そこで、あたしが頼むことというのは、お前も大抵察しているだろうけれど……。向柳原の林さん、あの人はずいぶん薄情だと思うよ」
「あら、林さんはもう少しさっきまで来ていましたよ」と、お君は慌てて打ち消すように言った。
「そう」と、お絹はさびしく笑った。「そりゃあよんどころなしの義理づくさ。あたし、どう考えてもあの人は人情がないと思う」
一体、ここの家《うち》を逃げ出したというのがすでに頼もしくない。この夏頃からあたしに隠して列び茶屋へ遊びにゆく、それがまた憎らしい。たしかな証拠を握っていないけれど、どうもお里と林之助はひと通りの馴染みではないらしく思われる。証拠がないので今まで堪忍していたが、いよいよこうと見極《みきわ》めが付いたら、あたしは不二屋へ蛇を持って行って、いつかお此を責めたように、お里をむごたらしく責めてやりたい。お里の頸へ蛇をまき付けて、子供が野良犬をひきまわすように両国じゅうを引き摺って歩いてやりたいと思っていた。しかしそれももう出来ない。就いてはあたしの死んだのを幸いに、二人がいい気になって仲よくするようなことがあったら、どうぞあたしに成り代って仇を取ってくれと、彼女はしみじみと言った。
お君はやはり涙ぐんで聞いていた。
「お前は子供でも蛇という味方があるんだからね。大人だって怖いことはないよ。あたしの魂も蛇に乗りうつって、きっとお前の加勢をしてあげるからね。いいかい」
もし林之助に見せたら気絶するかも知れないと思われるほどに、お絹のくぼんだ眼はいよいよ物すごく光った。糸のように痩せ細った顔と、この物すごい眼をじっと見つめていると、お絹が蛇か、蛇がお絹か、お君にも判らないほどに怖ろしかった。お絹は枕もとへ蛇の箱を持って来いと言った。
「君ちゃん。神棚の御神酒《おみき》と、それからお米を持って来ておくれ」
箱はお絹の枕もとに運び出された。彼女はお君にかかえられて蒲団の上に起き直って、自分の尖った膝の上にその箱をのせて貰った。いつものように箱をとんとん[#「とんとん」に傍点]と軽く叩くと、一匹の青い蛇の頭が箱の穴からぬるぬると現われた。お絹は小さい土器《かわらけ》に神酒徳利《みきどっくり》のしずくをそそいで、その口さきへ押しやると、蛇は蜜をなめるように旨そうになめ尽くした。お絹は更に自分の手のひらに米をのせて出すと、蛇はさとい眼で左右を見まわしながら、ひと粒も残さずにのみ込んでしまった。
「お前、あたしを忘れちゃいけないよ。もういいからお帰り」
お絹に頭を撫でられて、蛇はおとなしく首を引っ込めた。彼女が再び箱をたたくと、待ちかねていたように第二の青い蛇が穴から首を出した。お絹はかれにも神酒と米をあたえた。そうして、同じようにあたしを忘れるなと言って聞かせた。かれが穴に隠れると更に第三の青い蛇が頭をあらわして、これもお絹の手から神酒と米とを授けられて、嬉しそうに首を垂れていた。彼女はその蛇の首をつかんで穴からずるずるとひき出すと、蛇は二つに裂けた紅い舌を火焔《ほのお》のようにへらへら[#「へらへら」に傍点]と吐き出しながら、お絹の痩せた手首へたわむれるように絡《から》みついた。
※[#歌記号、1−3−28]銚子《ちょうし》出るときゃ涙で出たが……
小声で唄いながら、お絹は片手で膝をたたいて拍子を取ると、蛇はなめらかな膚《はだ》に菱形《ひしがた》の尖った鱗《うろこ》を立てて、まぶたのない眼を眠るようにとじた。しかしかれはいつまでも安らけくその音楽を聞いていることを許されなかった。
※[#歌記号、1−3−28]今じゃ銚子の風もいや……
唄の声がふるえながら消えると同時に、彼女は尾の先きをつかんで、ずるずると手首から引きほどかれた。
「君ちゃん。お前、知っているだろう。こうして、こうするんだよ」
尾をつかまれた蛇は縄をわがねたように円を描いて、空を二つ三つ舞ったかと思うと、その持ち主の細い頸にくるくるとまき付いた。お絹はお君を見返ってにやりと笑った。お君は身を固くしてじっと見つめていた。
「さあ、いいからお帰り」
第三の蛇もお絹の頸を離れて、もとの箱の穴へ追いやられた。
「あたしが死んだらば、お前もやっぱりこの商売になるかえ」と、お絹は訊いた。
「あたし、巳年《みどし》でないから駄目ですわ」
「そうとも限らない。お若だって巳年じゃないけれど……」と、お絹は考えていた。「だが、まあ、止した方がよかろうよ。こんな商売するもんじゃない。あたしだって、こんな商売でなけりゃあ男に愛想をつかされなかったかも知れない。だけれども、あたしがいなくなると、おまえは家《うち》へ帰らなけりゃなるまい。可哀そうだね」
お君は両袖で顔を掩いながら啜《すす》り泣きをはじめた。
「おっかさんが違っているんだからね。あたしももう少し達者でいれば、お前の面倒を見てあげられたんだけど……。おたがいに運が悪いんだから仕様がない」
お絹は崩れるように蒲団の上に俯伏すと、お君は声を立てて泣き出した。
「姐さん。後生《ごしょう》ですから死なずにくださいよ。姐さんが死ねば……あたしも死んでしまいます」と、お君は又しゃくり上げた。
「そりゃああたしだって死にたかあないけど……。あたし、ほんとうに死に切れないけど……。いいかい。今のことはお前に頼んだよ。あたしの着物でも簪《かんざし》でもみんなお前にあげるから。なに、お葬《とむら》いぐらいは小屋の方でどうにかして呉れるだろうよ。だがね、この蛇は人にうっかり渡しちゃいけないよ。これだけ飼い馴らしてあれば売ってもいい値になる代物《しろもの》だし、また何かの役にも立つかも知れないから。誰がなんと言っても渡しちゃいけないよ」
「はい」と、お君は泣きながらうなずいた。
きょうは風のぐあいか、東両国の観世物小屋の囃子《はやし》の音が手に取るように聞えた。お絹はさっきから自分でも不思議だと思うくらいに気分もはっきりして、舌も自由に働いたのであるが、言うだけのことを言ってしまうと、急にがっかりと気がゆるんで、目がくらみそうに頭がほてって来た。彼女は俯伏したままでまた正体もなく昏睡に陥ったので、お君はそっと寄って上から衾《よぎ》をきせてやった。縁の下では昼でもこおろぎが鳴いていた。
日が暮れると、豊吉をさきに立てて、お若やお花やお辰がぞろぞろと見舞いに来た。お花とお辰はさきへ帰った。豊吉とお若はあとに残って、お君と三人で薄暗い行燈のもとに黙って坐っていた。
さっきから幾たびも風鈴そば屋の声を聞くので、この頃の夜もだんだんに長くなったのが思われた。綿入れの節句もあしたに迫って、その夜寒《よさむ》をよび出すような雁《がん》の声が御船蔵《おふなぐら》の屋根のあたりで遠くきこえた。
「さびしいね」と、お若は襟をかき合わせた。
「さびしいなあ」と、豊吉も腕を組んだ。
大川の水の音もここまで聞えるほどに静かな夜であった。お絹は急に夢から醒めたようにもがいて、再び蛇ののたくるように蒲団の上を這いまわった。彼女は林之助の名を二度呼びつづけた。三度目にお里の名を呼んだ。
十五
豊吉が向柳原の屋敷へあわただしく駈け付けたのは、その夜の五つ半(午後九時)ごろであった。
「お絹さんはとうとういけませんでした」
「ふむ。いつ頃……」と、林之助もさすがに顔色を変
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