た。
 林之助が杉浦の屋敷へ住み付くときに、お前は再び侍になってこのわたしをどうしてくれると念を押したら、それは決して心配するな、時節が来ればきっと夫婦になる。蛇つかいの足を洗って相当の仮親《かりおや》をこしらえて、仁科林之助の御新造《ごしんぞ》さまと呼ばせてみせると、男は重い口で自分に誓った。しかしそれは一時の気休めで、自分が武家の女房になれようとは思えなかった。自分でもなりたいとは思わなかった。ここで一旦手を放せば、自分がつかんでいる男は鳥のように逃げてしまって、おそらく再び自分の手へは戻るまい。しょせん男と自分との縁は無いものだと、お絹は止めても止まらない男を出してやるときに、心の底では悲しく諦めていた。
 しかし男はその後もたびたび逢いに来てくれた。そうして、時節を待ってくれ、きっと夫婦になると繰り返して言った。いくら嬉しいと思っても、お絹は窮屈な武家の女房にはなりたくはなかった。それでも男がそれほどに自分を思っていてくれるということに就いて、彼女は言い知れない楽しみと誇りをおさえることは出来なかった。彼女は諦めながらもやはり林之助に憬《こが》れぬいていた。男がこの頃ちっとも寄
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