ぶたのやや窪《くぼ》んだ例の眼がいよいよ物凄く見えるのも林之助をおびやかした。
「お前さん。まだあたしを疑っているの」と、お絹は蒲団に片手を突きながら訊いた。
「なに、なんとも思うものか」
差しあたっては林之助はこう言うよりほかはなかった。彼はこの上に向島の一件を詮議するわけにもいかなかった。お絹もきょうはお里のことはひと言もいわなかった。ふたりは秋の雨を聞きながら静かに世間話などをしていた。二人がこれほどむつまじく打解《うちと》けて話し合っているのは近頃に珍らしいことで、次の間で聞いているお君もなんとなく嬉しかった。
しかし、こうして打解けているのは表向きで、二人の魂はかえってしだいに遠ざかっていくのではないか、というような寂しい思いが林之助の胸に湧いた。口では何とも思っていないと言うものの、向島の一件はまだ自分の胸の奥にわだかまっている。お絹もお里のことを忘れたのではあるまい。たがいの胸に思うことを抱《だ》いていながら、それを押し隠して美しく附き合っている、それがすでに他人行儀ではあるまいか。たがいの思うことを遠慮なく言い合って、泣いたり笑ったりした昔の方が林之助はいっそ懐かしいように偲ばれた。打解けていながらだんだん離れてゆくような寂しい心持ち、それを林之助は我ながらどうすることも出来なかった。どうしてこんな心持ちになったのか、それも自分には判らなかった。
お絹の胸にも不安のかたまりが鉛《なまり》のように重く沈んでいる。おとといの晩の気まぐれは自分でも深く後悔している。自分の男は林之助のほかにないという事がつくづく思い沁みた。殊にきのうの煩らいから、彼女は急に気が弱くなった。
医者にも大事にしろと言われたが、けさから身体に悪寒《さむけ》がして、胸のあたりが痛んでならなかった。咳をするたびに、あばら[#「あばら」に傍点]へ強くひびいて切《せつ》なかった。彼女はからだの悩みの重なるに連れて、いよいよ林之助が恋しくなった。
それにつけても、向島の一件を林之助が案外手軽く聞き流しているのが不安であった。お花やお若のおしゃべりが何を言ったか知れたものではない。それを林之助はどう聞いたか、なんと思っているのか、なまじ、何も言わずに打解けた様子を見せているだけに、心の奥底が知れなかった。
お絹も林之助もこうした別々の心をもちながら、日の暮れる頃まで仲よく話した。あまり長く起きていては悪かろうと、お絹を寝かして林之助はそっと帰った。
「姐さんに気をつけておくれよ」と、林之助はお君に頼んで路地を出た。
暗い雨の音が、傘をたたいて、本所七不思議の狸でも化けて出そうな夕暮れであった。薄ら寂しくなった林之助は、これから屋敷へ帰って余りうまくもない惣菜《そうざい》を食うよりも、途中でなにかあったかいものでも食って行こうかと思った。お絹が起きていれば無論いっしょに食うつもりであったが、病人の枕もとに坐って自分ひとりで食う気にもなれないので、彼はそのまま出て来たのであった。お絹の家にいる時にたびたび食いに行ったことがあるので、林之助は近所の軍鶏屋《しゃもや》へはいった。
彼は一人でちびりちびりと酒を飲んだ。
十
その晩の四つ(十時)過ぎに、林之助は屋敷へ帰った。
「どうも遅くなって済まないね」
門番のおやじに挨拶して、彼は自分の部屋にはいった。うすら寒い雨の夜をあるいて来て、内へはいると急に酒の酔いが発したらしく、彼はかっか[#「かっか」に傍点]とほてる頬をおさえて自分の小さい机の上にしばらく俯伏していた。それからしずかに起ちあがって、戸棚から蒲団と衾《よぎ》をひき出した。彼は蒲団の上に坐り直して今夜のことを考えた。
彼は両国の軍鶏屋で一人さびしく飲んでいた。しだいに酔いがまわって来るに連れて、彼はお里のことをふと思い出した。雨の降る日にでも遊びに来てくれとささやかれた甘い言葉を、又しても思い出した。きょうの雨で花火はお流れになって、列び茶屋も大抵休んでいることを彼はさっき見て知っているので、お里は家《うち》にいるに相違ないと思った。
「これから行って見ようかしら」
林之助はふらふら[#「ふらふら」に傍点]とそんな気にもなった。お絹の影が彼の頭から消されたのではなかったが、酔っている彼は、なに、かまうものかと大胆に構えた。単にお里の家へ寄って来るだけのことならば、別に子細もない筈だと彼は自分で理屈をこしらえてしまった。勘定をすませて表へ出ると、秋の日はもう暮れ切って、雨戸を半分ひき寄せてある町屋《まちや》の灯の影が暗い往来を淡く照らしていた。雨は相変らず、むせぶようにびしょびしょと降っていた。彼は傘をかたむけて外神田まで濡れて行った。
このあいだの晩お里に教えられた通りに、横町の酒屋の狭い裏へはいると、右側に
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