ら」に傍点]しゃべった。なんでもおとといの晩、姐さんはお花に誘い出されて向島のある料理茶屋へ行った。そこで無暗に飲んで来たらしいと言った。
「お花が奢《おご》ったのかしら」
「どうですかねえ」と、お若は意味ありげに笑っていた。
お花がそんな所へ連れ出して奢る筈がない。客に連れられて行ったに相違ないということは、林之助にもすぐに判った。
「花ちゃんは悪い人よ」
こう言ったお若は、豊吉と眼を見あわせて急に口をつぐんだ。
林之助は面白くなかった。これには何か深い意味が忍んでいるらしく思われた。しかしこの上に根問《ねど》いしても、どうで正直のことは白状しまいと思ったので、彼はいい加減に話を切りあげて起った。
外へ出ると雨はまだびしょびしょと降っていた。林之助は傘をかついで往来にぼんやり突っ立っていた。病気と聞いたらばなおさら急いでお絹を見舞うべきであるのに、彼はなんだか足が向かなかった。今の話の様子では、お花の取持ちで或る客と向島へ行ったらしい。しかもそれが普通の客ではないらしく思われてならなかった。自分のところへ押し掛けて来たのはその帰り途に相違ない。当てつけらしく自分をからかいに来たのか、それとも後悔してあやまりに来たのか。いずれにしても、林之助はいい心持ちでその話を聞くことは出来なかった。
「しかし折角ここまで来たもんだ。行ってみよう」
林之助はまっすぐに本所へ行った。傘をかたむけて狭い路地へはいると、路地のかどの店にはもう焼芋のけむりが流れていた。お絹の家は昼でも表の戸が閉めてあったが、叩くとお君がすぐに出て来た。
「おそろしく用心がいいね」
「ここらは下駄を取られますから。格子に錠《じょう》がないんですもの」と、お君は言い訳をしながら濡れた傘を受取った。
奥に寝ていたお絹はすぐに起き直ったらしい。林之助が足駄《あしだ》をぬぐのを待ちかねたように声をかけた。
「お前さん。きのうなぜ来てくれなかったの」
「きのうは御用で牛込へ行った」
枕もとに坐った林之助の顔を、お絹は黙ってじっと眺めているので、彼は堪えられなくなって眼をそむけた。
「下手な捕人《とったり》のように、ふた口目には御用、御用……。屋敷者はほんとうに都合がいいね」
「屋敷者も楽じゃあねえ」
「楽じゃあねえ屋敷者を好んでする人もあるのさ。誰も頼みもしないのに……」と、お絹は口で笑いながら睨んだ。
「一体どこが悪いんだ。飲み過ぎたんだというじゃあねえか」
「両国の方へ寄ったの。お花に逢って……」
「むむ。みんなに逢った」
お絹はしばらく黙って俯向いて、油の匂う枕をうっとりと見つめていた。もう枯れかかった朝顔の鉢を一つ列べてある低い窓の外には、雨の音がむせぶように聞えた。
「林さん」と、お絹はだしぬけに言った。「あたし、お前さんにあやまることがあるの。実はおとといの晩、お花にうっかり誘い出されて、向島の料理茶屋へ行ったと思ってください。石を抱くまでもない、あたしは何もかも正直に白状しますよ。そのお客というのは何日《いつ》も来る浅草の質屋の息子で、あたしもちっとは面白いかと思って行ってみると、まるで大違い。あんまり癪にさわったから、自棄《やけ》になって無暗に飲んで、喧嘩づらでそこをふい[#「ふい」に傍点]と出てしまって、それからお前さんの屋敷へ押し掛けて行ったの。ね、判ったでしょう。お花がなにを言ったか知らないが、ほんとうの話はそれだけですからね。必ず悪くとっちゃあ困りますよ。それにしても、あたしが悪いんだから謝まります。堪忍してください」
「それだけのことなら何もあやまる筋でもあるめえ。おらあもっと悪いことをしたのかと思った」と、林之助は少し皮肉らしく笑った。
「なんとでも言うがいいのさ」と、お絹も寂しく笑っていた。
お君が羊羹《ようかん》を切って菓子皿に盛って来た。それはけさ両国の小屋|主《ぬし》から見舞いによこしたのだと言った。羊羹をつまみながら林之助は枕もとの古い屏風をながめた。林之助がまだここにいる頃に粗相で一カ所破いたので、なにか切貼《きりば》りをするものはないかと、彼は近所の絵草紙屋へ行って探した末に、鬼の念仏の一枚絵を買って来て貼り付けた。夜泣きの呪《まじな》いじゃあるまいしと、お絹は思わず噴き出したことがあった。
その一枚の絵は煤《すす》びたままで今も屏風に貼り付けてある。林之助に取ってはこれも懐かしい思い出の一つであった。
彼はここへ身を寄せてからの小一年のあいだの出来事を、それからそれへと思いうかべた。そうして、自分の眼の前に悩ましげに坐っているお絹の衰えた姿を悼《いた》ましく眺めた。その妖艶のおもかげはきのうに変らないが、僅か見ないうちに小鼻の肉が落ちて、頬が痩せて、水のような色をしている顔の寂しさが眼に立った。それと同時に、ま
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