も舞台で倒れたという。林之助は近頃彼女のところへちっとも寄り付かなかった自分の不実らしい仕向けかたを悔まずにはいられなかった。無論、屋敷の御用も忙がしかった。友達のつきあいもあった。しかし無理に遣《や》り繰《く》ればどうにか間《ひま》のぬすめないこともなかった。
ひとにむかって何と上手に言い訳をしようとも、自分の心にむかっては立派に言い訳することができないような、うしろ暗い自分の行ないを林之助は自分で咎めた。
誰に水をさされたのか知らないが、お絹が飛んでもない疑いや妬みに心を狂わせるというのも、つまりは自分が無沙汰をかさねた結果である。世間には病気の女房をもっている夫もある。大あばたの女と仲よくしている男もある。うす気味の悪い蛇の眼を自分ばかりが恐れて嫌うのは間違っている。これからはまず自分の心を持ち直して、お絹のみだれ心を鎮める工夫をしなければならない。自分と、お絹と、蛇と、この三つは引き離すことの出来ない因果であると悟らなければならない。そうは思いきわめながらも、林之助がまつげの塵《ちり》ともいうべきは、かのお里の初々《ういうい》しいおとなしやかな顔かたちであった。それがなんとなしに彼の目さきを暗くして、お絹一人を一心に見つめていようとする彼のひとみの邪魔をした。
屋敷の門前へ来て再び空を仰ぐと、月は遠い火の見|櫓《やぐら》の上にかかって、その裾をひと刷毛《はけ》なすったような白い雲の影が薄く流れていた。こういう景色はよく絵にあると林之助は思った。
六
十五夜のあくる日は雨になって、残暑は大川の水に押し流されたように消えてしまった。二十九日は打ちどめの花火というので、柳橋の茶屋や船宿では二十日《はつか》頃からもうその準備に忙がしそうであったが、五月の陽気な川開きとは違って、秋の花火はおのずと暗い心持ちが含まれて、前景気がいつも引き立たなかった。江戸名物の一つに数えられる大川筋の賑わいも、ことしはこれが終りかと思うと、心なく流れてゆく水の色にも冷たい秋の姿が浮かんで、うろうろ船の灯のかずが宵々ごとに減ってゆくのも寂しかった。
両国の秋――お絹はその秋の哀れを最も悲しく感じている一人であった。十四日の夜以来、林之助は思い出したように足近くたずねて来た。しかし、いつもそわそわ[#「そわそわ」に傍点]して忙がしそうに帰って行った。十日《とおか》のあいだに四日も訪ねて来たが、しみじみと話をする間《ひま》もないように急いで帰ってしまった。
「人焦《ひとじ》らしな。いっそ来てくれない方がいい」と、お絹は物足らないような愚痴をいうこともあった。
「来なければ来ないで恨みをいう、来れば来るで愚痴をいう。困ったお嬢さまだ」と、林之助は笑っていた。
まったく林之助の言う通り、どっちにしてもお絹には不足があった。男が屋敷奉公をやめて、再び自分の手許《てもと》へ戻って来ない限りは、ほんとうに胸の休まる筈はないと自分でも思っていた。男を引き戻したい。お絹は明けても暮れても唯そればかりを念じていた。そんなら去年なぜ出してやったかと自分のこころに訊いてみても、確かな返事をうけ取ることが出来なかった。去年は悲しくあきらめて離れた――しかも、いよいよ離れてみると恋い死ぬほどに懐かしくなって来た――お絹は去年おめおめ[#「おめおめ」に傍点]と男を出してやった自分の愚かな心を、笞《むち》うちたいほどに罵り悔まずにいられなかった。
「お菓子はいかがです」
五十を二つ三つも越したらしい女が駄菓子の箱をさげて楽屋へそっとはいって来た。あさってが花火という二十六日のひる過ぎで、お絹が例の水色の※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2−88−10]をぬいで、中入りに一服すっているところであった。
「相変らずお市《いち》か捻鉄《ねじがね》だろうね」と、前芸のお若が蒼い顔を突き出した。お若は病気が癒って五、六日前からようよう舞台へ出るようになったのであった。
「お前さん、ずいぶん意地が綺麗だね。まだお医者の薬を飲んでいる癖に……」と、そばからお花も摺り寄って来た。そうして、「姐さん、いかが」と、笑いながらお絹にきいた。
「たくさん」と、お絹は重そうに頭《かぶり》をふった。「だけども、みんなが食べるならお食べよ。代は一緒に払ってあげるから、君ちゃん、お前もたんとお食べ」
「どうも御馳走さま」
みんなが一度に挨拶して、お若もお花もお君も、地弾きのお辰も、楽屋番の豊吉も、麩にあつまって来る鯉のように四方から菓子の箱を取りまいた。菓子売りはここらの観世物小屋の楽屋の者や列び茶屋の客などを相手に、毎日諸方へ入り込んでいるお此《この》という女であった。姐さんの奢《おご》りというので、みんながここを先途《せんど》と色
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