い出した。
 お里も初めは辞退していたが、しまいには男の言うことをきいて、外神田の家まで送って貰うことになった。月はいよいよ冴え渡って、人通りの少ない夜の町をさまよっているたった二人の若い男と若い女をあざやかに照らした。ふたりの肌と肌は夜露にぬれて、冷たいままに寄り添ってあるいた。あるく道々で、お里は自分の身の上などを少しばかり話し出した。
 お里は不二屋の娘ではなかった。不二屋の株を持っている婆さんはもう隠居して、日本橋の或る女が揚げ銭で店を借りている。お里はその女の遠縁に当るので、おととしの夏場から手伝いに頼まれて、外神田の自宅《うち》から毎晩かよっているが、内気の彼女は余りそんな稼業を好まない。自宅にはお徳という母があって、これも娘に浮いた稼業をさせることを好まないのであるが、幾らか稼いで貰わなければならない暮らしむきの都合もあるので、仕方がなしに娘を両国へ通わせている。七年前に死んだ惣領《そうりょう》の息子が今まで達者でいたらとは、母が明け暮れに繰り返す愚痴であった。
「よけいなお世話だが、早くしっかりした婿でも貰ったらよさそうなもんだが……」と、林之助は慰めるように言った。
「なんにも株《かぶ》家督《かとく》があるじゃなし、なんでわたくしどものような貧乏人のところへ婿や養子に来る者があるもんですか」と、お里はさびしく笑った。「自分ひとりならば、いっそ堅気の御奉公にでも出ますけれど、母を見送らないうちはそうもまいりません」
 お里の声は湿《うる》んできこえたので、林之助はそっと横顔を覗いてみると、彼女は月の光りから顔をそむけて袖のさきで眼がしらを拭いているらしかった。おとなしい林之助の眼にはそれがいじらしく悲しく見えた。そうして、こういう哀れな娘を呪《のろ》っているお絹の狂人染みた妬みが腹立たしいようにも思われて来た。
 不二屋へ毎晩はいり込む客の八分通りは皆んなこのお里を的《まと》にしているのであるが、彼女がこうした悲しい寂しい思いに沈んでいることは恐らく夢にも知るまい。現に自分を誘ってゆく諸屋敷の若侍たちも「どうだ、いい旦那を世話してやろうか」などと時どきからかっている。自分も毒にならない程度の冗談をいっている。お里は丸い顔に可愛らしいえくぼをみせて、いい加減に相手になっている。
 それは茶屋女の習いと林之助も今まで何の注意も払わずにいたが、今夜は彼女の身の上話をしみじみと聞かされて、もううっかりと詰まらない冗談も言えないような気になって、林之助もおのずと真面目な話し相手にならなければならなくなった。
 二人の話し声はだんだんに沈んでいった。問われるに従ってお里はいろいろのことを打ち明けた。七年前に死んだ兄のほかには、ほとんど頼もしい身寄りもないと言った。不二屋のおかみさんも遠縁とはいえ、立ち入って面倒を見てくれるほどの親身《しんみ》の仲でもないと言った。母は賃仕事《ちんしごと》などをしていたが、それも病身で近頃はやめていると言った。お里の話は気の弱い林之助の胸に沁みるような悲しい頼りないことばかりであった。
 林之助は自分とならんでゆくお里の姿を今更のように見返った。紅《あか》いきれをかけた大きい島田|髷《まげ》が重そうに彼女の頭をおさえて、ふさふさした前髪にはさまれた鼈甲《べっこう》の櫛やかんざしが夜露に白く光っていた。白地の浴衣《ゆかた》に、この頃はやる麻の葉絞りの紅い帯は、十八の娘をいよいよ初々《ういうい》しく見せた。林之助はもう一度お絹とくらべて考えた。お里はとかく俯向き勝ちに歩いているので、その白い横顔を覗くだけでは何となく物足らないように思われた。
「どうもありがとうございました。さぞ御迷惑でございましたろう」
 外神田まで送り付けて、路の角で別れるときにお里は繰り返して礼をいった。自分の家はこの横町の酒屋の裏だから、雨の降る日にでも遊びに来てくれと言った。それがひと通りのお世辞ばかりでもないように林之助の耳に甘くささやかれた。まんざらの野暮でもない林之助は阿母《おっかあ》に好きなものでも買ってやれといって、いくらかの金を渡して別れた。お里は貰った金を帯に挟んで、幾たびか見かえりながら月の下をたどって行った。
 お里に別れて林之助は肌寒くなった。夜もおいおいに更けて来るので、彼は向柳原へ急いで帰った。帰る途中でも、お絹とお里の顔がごっちゃになって彼の眼のさきにひらめいていた。
「お絹に済まない」
 お絹の眼を恐れている林之助は、お絹の心を憎もうとは思わなかった。彼は義理を知っていた。彼はお絹の濃《こま》やかな情を忘れることは出来なかった。お絹はとかく苛《いら》いらして、ややもすると途方もない気違い染みた真似をするのも去年の冬以来のことで、はっきり自分が彼女の家を立ち退いてからの煩らいである。現にきょう
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