ゅうにはきっと請け出すと番頭を口説いて、彼は二両二歩を借り出した。それを懐ろにして本所へ一散にかけ付けると、お絹の棺は小屋の者や近所の人たちに寂しく送られて、今かつぎ出されようとするところであった。林之助は棺のまえへ坐って線香を供えた。美しい水色の※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2−88−10]《かみしも》もそこには見えなかった。けばけばしい華魁《おいらん》の衣裳もみえなかった。ただ白木の棺桶が荒縄で十文字にくくられているだけであった。
 あまりの果敢《はか》なさに林之助は胸がつまるようになって、涙が止めどなしにほろほろ[#「ほろほろ」に傍点]と流れた。彼は取りあえず一両の金を包んで、きょうの葬式万端を取りまかなっているという小屋主に渡した。
 八幡鐘が夕六つを撞《つ》き出すころに、棺はいよいよ送り出された。お若もお君も目を泣き腫らして棺のそばに付いて行った。林之助も家の外まで送って出ると、ゆうぐれの町には秋の霧が薄く迷って、豊吉とほかの二、三人が振り照らしてゆく提灯の灯の影は、その霧隠れにぼんやりとゆれて行った。それをいつまでも見送って立つ林之助の眼には涙のあとが乾かなかった。
 引っ返して内へはいると、隣りのおばあさんが留守番役にひとり坐っていた。林之助は彼女からお絹の臨終の有様などを詳しく聞いた。お絹が最後にお里の名を呼んだのを知って、彼はまたぞっ[#「ぞっ」に傍点]とした。
 寺は深川で、見送りの人たちも四つ(十時)前にはみな帰って来た。なぜか知らないが、みな林之助に対して無愛想で、彼に悔みの口上をいう者は一人もいなかった。豊吉やお若もわきを向いていてほとんど挨拶もしないばかりか、豊吉は時どき当てこすりらしい毒口《どくぐち》さえ放った。それも畢竟《ひっきょう》は屋敷の物堅い掟《おきて》を知らないで、いちずに自分を不人情の人間と恨んでいるせいであろうと林之助も察していたが、今となってはいちいちその言い訳をするのも面倒であった。武士が大小まで手放して来たほどの切《せつ》ない心はお前たちには判るまい。おれの心は仏がよく知っている筈だと、彼は肚《はら》のなかでかれらの無智をあざけっていた。
 そのうちに小屋主は気がついて林之助に注意した。
「失礼でございますが、旦那様、お腰の物は……。こんな混雑の時でございますから、もし間違いでもありますといけません」
 林之助ははっ[#「はっ」に傍点]と赤面した。まさか大勢の前で大小を質に入れて来たとは言えなかった。返事に困っておどおど[#「おどおど」に傍点]していると、豊吉は薄あばたの顔に三角の眼をひからせた。
「なるほど旦那は丸腰で……。へえ、もうきょうかぎりお屋敷の方はおやめになったんでごぜえますかえ。ははあ、それじゃあここの姐さんがいなくなったんで、おおびらでお里の方へ引き取られるようなことで……。なんでもお里のおふくろの死んだ時にゃあ大層に肩を入れてお世話をなすってやったそうで……。へえ、みんな知っていますぜ」
 彼は憎々しくせせら笑った。丸腰を見とがめられて赤面しているところへ、又もやこんな忌味を言われて、林之助はむっ[#「むっ」に傍点]とした。
「お里のおふくろが死んだ時に顔を出したのがなんで悪い。顔を出そうと出すまいと俺の勝手だ。貴様たちにおれの料簡《りょうけん》がわかるか」
 豊吉も負けずに何か言おうとするのを小屋主がおさえた。ほかの者もなだめた。ともかくも武士の林之助を相手にして喧嘩をしては面倒だと思ったらしい。
 それはそれで済んだが、四方八方から意地のわるい眼で睨まれているようで、林之助はなにぶんにも居ごこちが悪いので、ろくろく挨拶もせずにふい[#「ふい」に傍点]と表へ出てしまった。彼の腰のまわりは寂しかった。そのうしろ姿を見送って、内ではくすくす笑う声も洩れきこえた。
「けしからん奴らだ」
 林之助は腹が立って堪まらなかった。彼はふところにまだ一両二歩の銀《かね》が残っているので、近所の軍鶏《しゃも》屋へ又はいった。悲しみと怒りとがもつれ合って、麻のように乱れている胸の苦しみを救うために、彼はたんとも飲めない酒を無暗に飲んだ。
「このあいだもここで飲んで、それからお里の家《うち》へ行ったのだ。今夜はどこへ行こう」
 彼は丸腰で屋敷の門をくぐれないことを考えた。もう今頃からどこへ行っても、大小をうけ出す銀の才覚もできそうもない。さりとてお絹の家へ引っ返す気にもなれないので、林之助は行くさきに迷った。酔いも手伝って彼はもう自棄《やけ》になった。今夜もこれからお里の家へ行こうと思った。お絹はもう死んでいる、お里のおふくろも死んでいる、だれにも遠慮気兼ねもいらないと思った。軍鶏屋を出ると、彼の足は外神田へむかった。
 めずら
前へ 次へ
全33ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング