えた。
「たった今です。ともかくもすぐ来ておくんなさい。みんなも待っていますから」
林之助は行かれないと気の毒そうに言った。なにぶんにも主人はあした早朝の登城であるから、自分がこれから屋敷を明けるわけにはいかないと断わった。豊吉は不平らしくぐずぐず言っていたが、林之助はまったくどうしても行くことが出来ないのであった。彼はいろいろに訳をいって、ようように豊吉をなだめて帰した。
「薄情ですねえ。お絹さんが化けて出ますぜ」と、豊吉は忌味《いやみ》をいって帰った。
なんと言われても林之助は仕方がなかった。豊吉ばかりでなく、きびしい屋敷の掟《おきて》を知らない者どもは、みんな自分を薄情とか不実とか非難《ひなん》しているであろうと、林之助は心苦しく思った。そうして、お絹の死に目に会わなかったことが残り惜しくも思われた。自分にも罪があるように思われて何だか気が咎めてならなかった。それと同時に、自分のからだをくくられていた縄が自然に解けたような軽い気にもなった。
「おれがお絹を殺したわけではない」と、彼は自分で自分を弁護した。死に目に会えなかったのも自分の罪ではない、今夜行かないのも自分の薄情からではないと、彼はいろいろの理屈をかんがえて努《つと》めて自分を弁護しようと試みた。それでも何だか自分にうしろ暗い点があるように危ぶまれた。
彼は今にもここへお絹のおそろしい眼が現われて来はしまいかと恐れられた。お絹に別れたことも悲しかった。うるさいとか執念ぶかいとか思いながらも、彼女と自分とのあいだには切ることのできない絆《きずな》がしっかりと結び付けられていたのであった。自分も無理にそれを振り切ろうとはしなかった。その絆が自然に切り放されて、自分は今初めて自由の身となった。彼は思わずほっ[#「ほっ」に傍点]とすると同時に、又なんとなく心淋しくなった。お絹が急に恋しく懐かしくも思われた。
お経の文句は何も知らない彼も、今夜は仏壇代りの机にお絹の俗名をかいた紙片を飾って、それにむかって一心に南無阿弥陀仏と念じた。ときどきに部屋の障子に女の髪の毛がさらさら[#「さらさら」に傍点]とさわるような音が耳について、彼は総身《そうみ》に水を浴びせられたように感じた。
屋敷を出られない彼は今夜はここで通夜をするつもりで、明けの鴉《からす》のきこえるまで行儀よく机の前に坐っていると、初めてお絹と馴染んだ時のことや、本所の家に一緒に暮らしていた時のことや、自分がここへ来てから後のことや、いろいろの思い出がそれからそれへと湧き出して、彼の眼は絶え間なしにうるんだ。お絹はやはり生かして置きたかった。憂しと見し世ぞ今は恋しきとはよく言ったものだと、彼は今更のように感じた。
明くる日は主人が登城の当日で、林之助は何を考えている間《ひま》もなかった。彼は用人に叱られないようにかいがいしく働いた。登城もとどこおりなく済んで、主人が屋敷へもどって来ると、彼もまず荷を卸したように思った。お絹の葬いはきょうの暮れ方と聞いているので、たとい途中の見送りは出来ないまでも、せめて門送《かどおく》りだけでもしたいと思って、彼は早々に屋敷を出た。出るさきになって気がついたのは、お里の母の死を聞いた時とおなじように、彼は幾らかの銀《かね》を用意して行かなければならない事である。いつもの場合と違って、彼は空手《からて》でお絹の家の格子をくぐるわけにはいかなかった。
このあいだの二歩がまだ返してないので、林之助は又もや用人に頼むことも出来なかった。屋敷じゅうにはほかに融通の付きそうな人物は見付けられなかった。彼は苦しまぎれに門番の老爺《おやじ》を口説いた。門番は内職をして小金を溜めているということを知っているからであった。
門番は素直に貸してくれないのを林之助はいろいろに頼んだ。それでも彼は肯《き》かなかった[#「肯《き》かなかった」は底本では「肯《き》かなった」]。門番は林之助が蛇つかいの小屋や列び茶屋へ足近く入り込むことを知っているので、彼の銀《かね》の入り途を疑って、そういう不信用の人間に大事の金を貸されないというような口ぶりで、あくまでも頭《かぶり》を振り通した。
林之助も根負けがして、仕方がなしに屋敷を出たが、どう考えても空手では行かれなかった。彼は友達の梶田弥太郎のところへ行って頼もうと思ったが、これから訪ねて行っても果たして家に居るかどうだか判らなかった。居たところできっとその銀が出来るかどうかも疑問であった。そんなことに暇取っているうちに、葬いが出てしまっては何にもならないと、林之助はむやみに気が急《せ》いた。
「ええ、もう仕方がない」
彼は思い切って馴染みの質屋へかけ込んで、大小を投げだして銀を借りた。武士の大小であるから片時《へんし》も離すことはできない。今夜じ
前へ
次へ
全33ページ中31ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング