どうで死ぬもんだからなんて薄情なことはしっこなしですぜ」
林之助はだまってうなずいた。
「不二屋のお里のおふくろが死んだそうですね」と、豊吉はまた言った。
どこか急所をえぐられたように、林之助ははっ[#「はっ」に傍点]と顔色を変えて、すぐには返事が出来なかった。
十四
林之助が帰ると、やがて午《ひる》が近づいた。青物市ももうそろそろ引ける時刻になったので、観世物小屋に用のある人たちは一度に起《た》った。豊吉とお若は連れ立って帰った。お絹はもがき疲れてしばらく昏々《うとうと》と睡っていた。隣りのお婆さんもこの間に家の用を片付けて来たいといって帰った。
お絹の枕もとにはお君が一人さびしそうに坐っていたが、ことし十五で外の恋しい彼女は、やがて病人の寝息をうかがって、音のしないように格子をあけて、そこから半身を出して何を見るともなしに表を覗くと、長い往来は露地の幅だけに明るく見えて、そこにはいろいろの秋の姿をした人が廻り燈籠のように通った。※[#「魚+是」、第4水準2−93−60]《しこ》を売る声もきこえた。赤とんぼを追いまわる子供の黐竿《もちざお》も見えた。お君はうっとりとそれを眺めていると、内からお絹の弱い声が聞えた。
「君ちゃん、君ちゃん。いないの」
「はい」
はっきりと返事をして、お君はあたふたと内へ駈け込むと、お絹はいつか眼を醒ましていて、薬をのませてくれと言った。まだ少し早いと思ったが、お君はすぐに薬鍋を温めにかかった。粥《かゆ》をたべるかと訊いたら、お絹は黙って首を振った。
托鉢《たくはつ》の坊主が門《かど》に立って鉦《かね》を叩いたので、お君は出て行って一文やった。薬が煮つまって枕もとへ持ってゆくと、お絹は苦しそうにひと口すすったが、それはほんの喉を湿《しめ》すに過ぎないらしかった。
「君ちゃん。あたし少しお前に言って置きたいこともあり、頼んで置きたいこともあるんだよ」と、お絹は案外はっきり言った。
これほどしっかりと口が利けるようならば、姐さんも少しよくなったのかしらと、お君はなんだか頼もしいようにも思われた。
「君ちゃん、お前にはいろいろ世話になったけれども、今度はあたしももういけないよ。あたしも覚悟しているよ」
お君は涙ぐんで聞いていた。
「そこで、あたしが頼むことというのは、お前も大抵察しているだろうけれど……。向柳原の林さん、あの人はずいぶん薄情だと思うよ」
「あら、林さんはもう少しさっきまで来ていましたよ」と、お君は慌てて打ち消すように言った。
「そう」と、お絹はさびしく笑った。「そりゃあよんどころなしの義理づくさ。あたし、どう考えてもあの人は人情がないと思う」
一体、ここの家《うち》を逃げ出したというのがすでに頼もしくない。この夏頃からあたしに隠して列び茶屋へ遊びにゆく、それがまた憎らしい。たしかな証拠を握っていないけれど、どうもお里と林之助はひと通りの馴染みではないらしく思われる。証拠がないので今まで堪忍していたが、いよいよこうと見極《みきわ》めが付いたら、あたしは不二屋へ蛇を持って行って、いつかお此を責めたように、お里をむごたらしく責めてやりたい。お里の頸へ蛇をまき付けて、子供が野良犬をひきまわすように両国じゅうを引き摺って歩いてやりたいと思っていた。しかしそれももう出来ない。就いてはあたしの死んだのを幸いに、二人がいい気になって仲よくするようなことがあったら、どうぞあたしに成り代って仇を取ってくれと、彼女はしみじみと言った。
お君はやはり涙ぐんで聞いていた。
「お前は子供でも蛇という味方があるんだからね。大人だって怖いことはないよ。あたしの魂も蛇に乗りうつって、きっとお前の加勢をしてあげるからね。いいかい」
もし林之助に見せたら気絶するかも知れないと思われるほどに、お絹のくぼんだ眼はいよいよ物すごく光った。糸のように痩せ細った顔と、この物すごい眼をじっと見つめていると、お絹が蛇か、蛇がお絹か、お君にも判らないほどに怖ろしかった。お絹は枕もとへ蛇の箱を持って来いと言った。
「君ちゃん。神棚の御神酒《おみき》と、それからお米を持って来ておくれ」
箱はお絹の枕もとに運び出された。彼女はお君にかかえられて蒲団の上に起き直って、自分の尖った膝の上にその箱をのせて貰った。いつものように箱をとんとん[#「とんとん」に傍点]と軽く叩くと、一匹の青い蛇の頭が箱の穴からぬるぬると現われた。お絹は小さい土器《かわらけ》に神酒徳利《みきどっくり》のしずくをそそいで、その口さきへ押しやると、蛇は蜜をなめるように旨そうになめ尽くした。お絹は更に自分の手のひらに米をのせて出すと、蛇はさとい眼で左右を見まわしながら、ひと粒も残さずにのみ込んでしまった。
「お前、あたしを忘れちゃいけないよ。もう
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