をやめれば忌でも応でもお絹のふところへ戻らなければならない。朝晩におそろしい蛇の眼と睨み合っていなければならない。林之助は第一にそれを恐れていた。やはり今のように遠く懸け離れていて、そうして時どきに逢っているのが一番無事であると信じていた。
 九月八日の午前《ひるまえ》に、林之助はちょっとの隙きを見て両国へ行った。あしたは重陽《ちょうよう》の節句で主人も登城しなければならない。その前日の忙がしい中をくぐりぬけ、彼はもう堪まらなくなって、屋敷を飛び出したのであった。
 両国の秋はいよいよ深くなって、路傍《みちばた》には栗を焼く匂いが香ばしく流れていた。しかしここの名物の観世物小屋の野天商人《のでんあきんど》が商売をはじめるのは午《ひる》過ぎからで、午まえの広小路は青物の世界であった。夜明けから午までは青物市がここに開かれるので、西両国には荒筵を一面に敷きつめて、近在の秋のすがたを江戸のまん中にひろげていた。
 霜に染められたかと思う川越芋の紅いのに隣り合って、秋茄子の美しい紫が眼についた。どこの店にも枝豆がたくさん積んであるので、やがて十三夜の近づくのが知られた。これから神明《しんめい》の市《いち》の売物になろうという生姜《しょうが》の青い葉や紅い根には、白い露と柔かい泥とが一緒にぬれてこぼれていた。江戸じゅうの混雑を一つに集めたかと思われるような両国にも、暮れゆく秋の色と匂いとが漲《みなぎ》っているように見えるのが、このごろの薄寒い朝の景色であった。その青物の露を蹈《ふ》んで、林之助は橋を渡った。
「あら、いらっしゃい」
 格子をあけると、お君はすぐに駈け出して来た。うす暗いお絹の枕もとには楽屋番の豊吉も坐っていた。前芸のお若もしょんぼりと坐っていた。いつも留守番を頼むという隣りのお婆さんもぼんやりと屈《かが》んでいた。どことなしに薬のけむりがしめって匂っていた。
「おや、いらっしゃい」と、豊吉は振り返ってまず声をかけた。そうして、すぐに入口へ起って来た。
「旦那。いけませんぜ。あれほど私が言って置いたのに……。あなたはどうも不実ですぜ。きょうはよっぽどお迎いに出ようと思っていたんですが……」と、彼は林之助をたしなめるように言った。
「いや、なにしろ御用が忙がしいんでどうもこうもならねえ。あしたは節句という忙がしいなかを、きょうはようよう抜け出して来たくらいなんだから、まあそう叱って貰いたくない」と、林之助は苦笑《にがわら》いをした。「そうして、どうだね、病人の容体は……」
 豊吉は顔をしかめて首を振った。
「悪くなるばかり」
「困ったもんだ。医者もあぶないと言っているかね」
「はっきりとは言わねえが、もう匙《さじ》を投げているらしいんですよ。なにしろ咳が出て、胸から肋骨《あばら》が痛んで熱が出て……。どうもこの秋は越せまいと思うんです。わたくしも長らくお世話になった姐さんですが……」
 もう今にも死ぬもののように豊吉は溜め息をついていた。こうなったらいっそお絹が死んでくれればいいというような考えが、林之助の頭を稲妻のように掠めて通った。
 彼はだまって内へはいると、お若もお君もお婆さんもみな眼を赤くしていた。林之助は自分の不人情が急に恥かしくなって、肩身が狭いような心持ちで病人の枕もとにそっと坐ると、お絹はもう正体がなかった。もう誰の見境いもないらしかった。時どきに苦しそうに胸をかかえながら、彼女は髪を振り乱して、衾《よぎ》を跳ねのけて、夢中で床の上に起き直ろうとしてまた倒れた。と思うと、溺れた人が何物をか掴んですがろうとするように、彼女は痩せた手をのばして寝床の上を這いまわった。それが傷ついた蛇ののたくっているようにも見えて、林之助にはものすごかった。
 彼はいよいよ気が咎めてならないので、まわりの人たちにむかって頻りに自分の無沙汰の言い訳をした。屋敷の御用の忙がしいことを話した。主人が節句の登城の前日に、たとい半※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《はんとき》でも屋敷をぬけてこうして見舞いに来たことが、彼の不実でないという十分の証拠にはならないらしく、どの人も彼に対して冷たいような眼を向けていた。
「なにしろ、わたしも主人持ちだから、毎日見舞いに来るわけにもいかない。まあ、皆さん、なにぶん願いますよ」と、林之助はみんなにくれぐれも頼んでいた。
 まったくきょうは忙がしいからだであるので、ゆっくりとここに坐り込んでいることを許されなかった。彼は小半※[#「日+向」、第3水準1−85−25]ばかりで病人の枕もとを起った。
 帰るときに豊吉が格子の外まで送って出た。
「旦那、ようござんすかえ。姐さんは九死一生という場合なんですぜ。お屋敷の御用は仕方がありませんが、ほかの何事をおいてもここへ来なけりゃあ義理が済みませんぜ。
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