ど、おっかさんが急病だといって、家《うち》から迎いが来たもんですから、びっくりして帰ったんですよ」
「おふくろが急病……」と、林之助も驚いた。「さっきまでここにいたくらいじゃあ、ほんとうの急病なんだね」
「ええ。けさまで何ともなかったんだそうですがね。どうしたんでしょう。迎いの人の口ぶりじゃあもういけないらしいんですよ」と、お染も顔をしかめて言った。「その話を聞くと、可哀そうに里ちゃんはわあっ[#「わあっ」に傍点]と泣き出して……。あの子ふだんから親孝行なんですからね。いよいよいけないとなったら、さぞがっかりするでしょう」
「そりゃあ気の毒だね」
 弥太郎もさすがに顔の色を陰らせた。林之助は茶碗を持っている手さきがふるえた。病身とはかねて聞いていたが、現に先月末の花火の晩には近所の百万遍の数珠《じゅず》を繰りに行ったお里の母が、きょう俄かに死にそうな大病に取りつかれるとは、あんまり果敢《はか》ないように思われた。その母の枕もとに親孝行のお里が取り乱して泣いている、いじらしい姿もすぐに彼の眼にうかんだ。
「虫が知らすとでも言うんですかしら。里ちゃんはこの二、三日なんだかぼんやりしていて、唯うっとりとうしろの川の水を眺めていたりして、人が声をかけても返事をしないこともあるんですよ。今思うと、やはりこんなことがある前兆《しらせ》だったのかも知れませんね」と、お染はまた言った。
 お里がこの二、三日物思わしげに暮らしたのは、母に別れる前兆であったろうか。なんにも知らないお染が一途《いちず》にそう解釈するのは無理もなかった。しかし林之助は、もっと深い意味でこれを考えさせられた。あの以来、ぼんやりするほど思いつめているお里を、自分はどう処分しようと考えているのか。彼は我ながらぞっ[#「ぞっ」に傍点]とするほどに自分の酷《むご》たらしい心を恐れた。
「里ちゃんの家は都合がいいのかね」と、彼は知れ切ったようなことを訊いてみた。
 お染も知れ切った事をいうような顔をして、すぐ打ち消すように答えた。
「どうでこういうところへ来ているくらいですもの、都合のいいことがあるもんですか。ほかに頼りになるほどの親類もないそうですから。阿母《おっか》さんの病気が長引くようなら勿論のこと、今すぐに死なれても第一にお葬式《とむらい》にも困るくらいでしょうと思うんですよ。ここのおかみさんも幾らか面倒をみ
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