もお絹を裏切ることはできなかった。お絹の呪いも怖ろしかった。
「なぜ今夜お里を訪ねたろう」
 どう思い直しても、彼は今夜のおのれを悔まずにはいられなかった。彼の涙は枕の上にはらはら[#「はらはら」に傍点]とこぼれた。
 彼はまぼろしのように眼の前にあらわれて来たお里のおとなしやかな顔にむかって、手をあわせて幾たびか詫びた。
 彼を安らかに眠らすまいとするように、雨は大きい屋根の瓦を夜通し流れて、軒の大樋《おおどい》に溢れるような音を立てていた。

     十一

 それから三日ばかりは御用|繁多《はんた》で、林之助は屋敷を出られなかった。九月にはいって晴れた空がつづいた。きょうは夕方から深川に発句《ほっく》の運座《うんざ》があるので、まずお絹の病気を見舞って、それから深川へまわろうと、彼は午《ひる》さがりに屋敷をぬけ出した。
 往来の人はみな袷《あわせ》を着ていた。林之助も新しい袷を着た。澄み切った青い空に秋の風が高く吹いて、屋敷町には赤とんぼの群れが目まぐるしいほどに飛び違っていた。鷹匠《たかじょう》が鷹を据えて通るのも、やがて冬の近づくのを思わせた。町へ出ると、草鞋《わらじ》を吊るした木戸番小屋で鰯を買っているのが見えた。
 柳橋の袂で林之助は友達に逢った。彼はやはり浅草の或る旗本屋敷の中小姓を勤めている男で、これも今夜の発句の会へ出る一人であった。彼は梶田弥太郎といって、林之助よりも三つばかり年長《としかさ》であった。
「やあ。どこへ」と、二人は立ち停まった。今夜の発句の話なども出た。弥太郎はこれから両国へ遊びに行こうと言った。ゆくさきは列び茶屋に決まっているので、林之助はすこし躊躇した。お里に逢うのはなんだか気が咎めるようであった。
「え、お里の顔でも見に行こうじゃないか」と、弥太郎は言った。「それとも、御用かい」
 着流しの林之助は御用に行くとも言われなかった。彼は断わり切れないで一緒に引き摺られてゆくと、不二屋の軒提灯は秋風にゆらめいていた。二人はずっと店へはいって床几に腰をかけると、これも顔なじみのお染という若い女が愛想よく茶を汲んで来たが、茶釜の前にもお里のすがたは見えないので、林之助は一種の失望を感じた。
「きょうはどうしたい、お里は……」と、弥太郎も的《あて》がはずれたような顔をして訊いた。
「里《さあ》ちゃんはもう少しさっきまでいたんですけれ
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