た》よろしくあって幕という寸法だろう。どうだ、どうだ」
「見料五十文は惜しくない」と、お花は澄まして笑っていた。
「だが、罪だな」と、豊吉は勿体らしく首をひねった。「なぜと言いねえ。取り巻きのおめえ達はそれでよかろうが、姐さんはいい人身御供《ひとみごくう》だ。そんなことが向柳原へひびいてみねえ。決して姐さんの為にゃなるめえぜ」
「姐さんもちっとは浮気をするがいいのさ」
「などと傍《そば》から水を向けるんだからおそろしい。悪党に逢っちゃあ敵《かな》わねえな」
「人聞きの悪いことをお言いでないよ」
 豊吉の推測はことごとく外《はず》れなかった。小屋が閉場《かぶ》ってから、お花はどう説き付けたかお絹を誘い出して向島へ駕籠で行った。豊吉のいった通り、浅草寺の入相の鐘が秋の雲に高くひびいて、紫という筑波山《つくば》の姿も、暮れかかった川上の遠い空に、薄黒く沈んでみえた。堤下《どてした》の田圃には秋の蛙が枯れがれに鳴いていた。
 二挺の駕籠が木母寺《もくぼじ》の近所におろされたときには、料理茶屋の軒行燈に新しい灯のかげが黄色く映っていた。風雅な屋根付きの門のなかには、芙蓉《ふよう》のほの白く咲いているのが夕闇の底から浮いているように見えた。お絹とお花はその茶屋の門をくぐって奥の小座敷へ通されると、林之助と丁度同い年ぐらいの町人ふうの若い男が、女中を相手に杯をとっていた。
「どうも遅くなりました」と、お花は丁寧に挨拶した。
 お絹は燭台の灯に顔をそむけて坐った。
 女中はなんにも言わずに二人をじろじろ[#「じろじろ」に傍点]見ながらつん[#「つん」に傍点]と立って行った。その素振りがなんだか自分たちを軽蔑《さげす》んでいるらしくも見えたので、お絹はまず勃然《むっ》とした。
「それでもよく出て来てくれたね」
 男がさした杯をお絹はだまって受取って、お花に酌をさせてひと口飲んだ。お花が取持ち顔に何かいろいろの話を仕向けると、男も軽い口で受けた。
 男は浅草の和泉屋という質屋の忰《せがれ》で、千次郎という道楽者であった。吉原や深川の酒の味ももう嘗《な》め飽きて、この頃は新しい歓楽の世界をどこにか見いだそうとあさっている彼の眼に、ふと映ったのは両国のお絹であった。彼は自分の物好きに自分で興味をもって、この美しい蛇つかいの女に接近しようと努《つと》めた。楽屋への遣い物、木戸番への鼻薬、それ
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