められて海苔巻を一つ食った。
「きょうは御馳走のある日だったね」と、地弾きのお辰は海苔の付いたくちびるを拭きながら、鉄漿《かね》の黒い歯をむき出して笑った。
「みんな姐さんのお蔭さ」と、お若も茶を飲みながら相槌《あいづち》を打った。
 飲み食いの時にばかり我れ勝ちに寄って来ても、まさかの時には本当の力になってくれる者は一人もあるまい。お絹はその軽薄を憎むよりも、そうした境遇に沈んでいる自分の今の身が悲しく果敢《はか》なまれた。小さいときに死に別れた両親《ふたおや》や妹が急に恋しくなった。
 それに付けても林之助がいよいよ恋しくなった。自分が取りすがってゆく人は林之助のほかにはない。もうこれからは決して無理も言うまい。我儘も言うまい。どこまでもおとなしくあの人の機嫌を取って、見捨てられないようにする工夫《くふう》が専一だと、いつにない、弱い心持ちにもなった。しかしお里のことを考え出すと、彼女はまた急に苛々《いらいら》して来た。林之助の見ている前で、お里の島田髷を邪慳《じゃけん》に引っつかんで、さっきお此を苦しめたようにその鼻づらへ青い蛇をこすりつけてやりたいとも思った。林之助への面《つら》あてに、新しい男を見つけ出して面白く遊んでみようかとも思った。
「又ちゃん。なに……」
 又蔵によび出されて、お花は楽屋口へ起《た》って行った。二人は何かしばらくささやき合っていたが、やがてお花はにこにこ[#「にこにこ」に傍点]しながら戻って来た。その時にはお絹はもう舞台に出ていた。
「お花さん。鮓《やすけ》の相手は知れたかね」と、楽屋番の豊吉が食いあらした鮓の皿を片付けながら訊いた。
 お花は黙ってうなずいた。
「当ててみようか。浅草の五二屋《ごにや》さん。どうだい、お手の筋だろう」
「楽屋番さんにして置くのは惜しいね」
「売卜者《うらないしゃ》になっても見料《けんりょう》五十文は確かに取れる」と、豊吉はいつもの癖でそり返って笑った。
「浅草の大将、だんだんに欺《だま》を出して来るね。又公が今来てお前に耳打ちをしていた秘密の段々、これも真正面から図星を指してみようか。お花さんにまず幾らか握らせて、向島あたりへ姐さんをおびき出して、ちょうど浅草寺《せんそうじ》の入相《いりあい》がぼうん[#「ぼうん」に傍点]、向う河岸で紙砧《かみぎぬた》の音、裏田圃で秋の蛙《かわず》、この合方《あいか
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