《うちと》けて話をする機会もあるまい。かたがた今日は早く帰る方がいいと思って、彼は早々に暇乞《いとまご》いをしてここを出た。
路地の出口で菓子売りのお此に逢った。お此もこの近所に住んでいるので、これからお里の家へ悔みに行くのだと言っていた。
「旦那さまもお里さんのところへいらしったんですか」と、お此は子細らしく訊いた。
隠すこともできないので、林之助も正直に答えると、お此は危ぶむようにささやいた。
「あなた、お里さんのところへ行くのはお止しなさいましよ。飛んだことが出来ますよ」
このあいだ両国の楽屋で蛇責めに逢ったことを、お此は身ぶるいしながら話した。
「あの時のことを考えると今でもぞっ[#「ぞっ」に傍点]とします。わたしはもうそれぎりあの楽屋へは商《あきな》いにまいりません。お絹さんは、もしこの後も相変らず不二屋にあなたの姿を見掛けるようなことがあると、この蛇を持ってお里のところへお礼に行くと、こう言うんです。それですもの、もしあなたがここの家《うち》へ来たなんていうことが知れたら、そりゃあどんな騒ぎが起るか知れませんよ。第一お里さんが可哀そうですからね。蛇なんぞ持って来られた日にゃあ、あの子は目をまわして死んでしまいましょう」
林之助も息をつめて聞いていた。
十三
「困った奴だ」
林之助は口のうちで幾たびか罵った。
お此と別れて屋敷へ帰る途中で、彼はお絹を憎むの念が胸いっぱいに溢れ切っていた。彼はお絹があまりに執念ぶかいので憎くなった。罪もないお里をそれほどに苦しめようとするお絹の妬み深い心には、どう考えても同情することが出来なくなった。一種の意地と、一種の江戸っ子かたぎとが彼をあおって、彼は弱いお里をあくまでも庇ってやらなければならない、それが男の役目であるというようにも考えはじめた。
先月までの林之助はともあれ、今の彼はお絹に対してあまり立派な口をきけた義理でもないのであるが、彼はもうそんなことを考えている余裕がなかった。お此を蛇責めにして、さらにお里を蛇責めにしようとするお絹の残酷な復讐手段に対して、彼の胸には強い反抗心が渦巻いて起った。彼はいっそお絹を殺してしまいたいほどに腹が立った。
また一方から考えても、自分はもうお里を振り捨てることの出来ない破目になって来た。今朝まではなんとかして、お里に詫びて、いっそ綺麗に手を切ろう
前へ
次へ
全65ページ中53ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング