も》には薄い靄が流れて、列び茶屋にはもうちらちら[#「ちらちら」に傍点]と提灯の火が揺らめいて見えた。その華やかな灯のなかに、今夜はお里を見いだすことが出来ないのだと思うと、彼の足は神田の方へむかってますます急がれた。
酒屋の路地へはいって、格子の前に立つと、入口の障子は半ば開かれて、線香の匂いが狭い沓脱《くつぬぎ》にまで溢れていた。ここはもう薬の匂いではなかったので、林之助は急に暗い心持ちになった。
案内を乞うと、女の児が出て来た。それはこの間の晩に使いを頼んだ隣りの娘らしかった。
内へあがると、やはり近所の人らしいおかみさんや娘が四、五人ごたごた[#「ごたごた」に傍点]坐っていて、逆さに立てまわした古い屏風のかげからは線香の煙りがうず巻いて流れていた。その屏風のそばに蒼い顔のお里がしょんぼりと坐っていたが、彼女は島田《しまだ》をほどいて銀杏返《いちょうがえ》しに結い替えているので、林之助はちょっとその顔が判らないほどに寂しく見えた。
ひる前には隣りのおかみさんが話しに来た。その時までは阿母《おふくろ》も別に変った様子もなかった。胸が少しせつないようだと言っていたが、やはりいつものように火鉢の前で襤褸《ぼろ》とじくりなどをしていた。ひる飯を食ってしまって、台所へ茶碗小鉢を洗いに出ると、彼女はだしぬけに倒れた。その物音に驚かされて駈けつけて来た時には、彼女はもう生きている人ではなかった。それからすぐに両国へ使いをやって、お里はころげるように駈けて帰ったが、とても間に合う筈はなかった。そんな話をして、お里は声を立てて泣いた。
林之助はかの二歩を紙につつんで出した。もっとどうにかしたいのだが思うように行かないから、差しあたりはこれで堪忍してくれといった。お里は頂いて、それを隣りのおかみさんに渡した。おかみさんが葬式万端の世話を焼いているらしかった。おかみさんは受取ってすぐに仏前に供えたが、二歩の重みは彼女《かれ》の注意を惹いたらしく、今更のように林之助とお里の顔をじろじろと見くらべていた。こうした家へ大小をさした人が悔みに来るのは、すこし不似合いであると見えて、ほかの女たちもみな林之助に眼をあつめて、今までべちゃべちゃしゃべっていた者も一度に口を結んでしまった。
ここに長くいてはみんなの邪魔になると、林之助もさとった。どうで周囲に大勢の人がいては、お里と打解
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