議でならなかった。
その晩である。西岡の屋敷でも迎い火を焚いてしまって、下女のお霜は近所へ買物に出た。日が暮れても蒸し暑いので、西岡は切子燈籠《きりこどうろう》をかけた縁先に出て、しずかに団扇《うちわ》をつかっていると、やがてお霜が帰って来て、お嬢さんはどこへかお出かけになりましたかと訊いた。いや、奥にいる筈だと答えると、お霜はすこし不思議そうな顔をして言った。
「でも、御門の前をあるいておいでなすったのは、確かにお嬢さんでございましたが……。」
「お前になにか口をきいたか。」
「いいえ。どちらへいらっしゃいますと申しましたら、返事もなさらずに行っておしまいになりました。」
西岡はすぐに起《た》って奥をのぞいて見ると、お福はやはりそこにいた。彼女は北向きの肱掛け窓に寄りかかって、うとうとと居眠りでもしているらしかった。西岡はお霜にまた訊いた。
「その娘はどっちの方へ行った。」
「御門の前を右の方へ……。」
それを聞くと、西岡は押取刀《おっとりがたな》で表へ飛び出した。今夜は薄く曇っていたが、低い空には星のひかりがまばらにみえた。門前の右どなりは僕の叔父の屋敷で、叔父は涼みながらに門前にたたずんでいると、西岡は透かし視て声をかけた。
「妹は今ここを通りゃあしなかったかね。」
「挨拶はしなかったが、今ここを通ったのはお福さんらしかったよ。」
「どっちへ行った。」
「あっちへ行ったようだ。」
叔父の指さす方角へ西岡は足早に追って行ったが、やがて又引っ返して来た。
「どうした。お福さんに急用でも出来たのか。」と、叔父は訊いた。
「どうもおかしい。」と、西岡は溜息をついた。「貴公だから話すが、まったく不思議なことがある。貴公はたしかにお福を見たのかね。」
「今も言う通り、別に挨拶をしたわけでもなし、夜のことだからはっきりとは判らなかったが、どうもお福さんらしかったよ。」
「むむ。そうだろう。」と、西岡はうなずいた。「貴公ばかりでなく、下女のお霜も見たというのだから……。いや、どうもおかしい。まあ、こういうわけだ。」
妹に生きうつしの娘を三度も見たということを西岡は小声で話した。他人の空似といってしまえばそれ迄のことであるが、自分はどうも不思議でならない。殊に今夜もその娘が自分の屋敷の門前を徘徊していたというのはいよいよ怪しい。これには何かの因縁がなくてはならない。と
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