薬前薬後
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)盂蘭盆《うらぼん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)不眠|勝《がち》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]
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     草花と果物

 盂蘭盆《うらぼん》の迎い火を焚くという七月十三日のゆう方に、わたしは突然に強い差込みに襲われて仆《たお》れた。急性の胃痙攣《いけいれん》である。医師の応急手当で痙攣の苦痛は比較的に早く救われたが、元来胃腸を害しているというので、それから引きつづいて薬を飲む、粥《かゆ》を啜《すす》る。おなじような養生法を半月以上も繰返して、八月の一日からともかくも病床をぬけ出すことになった。病人に好い時季というのもあるまいが、暑中の病人は一層難儀である。わたしはかなりに疲労してしまった。今でも机にむかって、まだ本当に物を書くほどの気力がない。
 病臥《びょうが》中、はじめの一週間ほどは努めて安静を守っていたが、日がだんだんに経つに連れて、気分の好い日の朝晩には縁側へ出て小さい庭をながめることもある。わたしが現在住んでいるのは半蔵門に近いバラック建の二階家で、家も小さいが庭は更に小さく、わずかに八坪あまりのところへ一面に草花が栽《う》えている。
 若い書生が勤勉に手入れをしてくれるので、わたしの病臥中にも花壇はちっとも狼藉《ろうぜき》たる姿をみせていない。夏の花、秋の草、みな恙《つつが》なく生長している。これほどの狭い庭に幾種の草花類が栽えられてあるかと試みに数えてみると、ダリヤ、カンナ、コスモス、百合、撫子《なでしこ》、石竹《せきちく》、桔梗《ききょう》、矢車草、風露草、金魚草、月見草、おいらん草、孔雀草、黄蜀葵《おうしょっき》、女郎花《おみなえし》、男郎花《おとこえし》、秋海棠《しゅうかいどう》、水引、※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]頭《けいとう》、葉※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]頭、白粉《おしろい》、鳳仙花《ほうせんか》、紫苑《しおん》、萩、芒《すすき》、日まわり、姫日まわり、夏菊と秋の菊数種、ほかに朝顔十四鉢――先《ま》ずザッとこんなもので、一種が一株というわけではなく、一種で十余株の多きに上っているのもあるから、いかに好く整理されていたところで、その枝や葉や花がそれからそれへと掩《おお》い重なって、歌によむ「八重葎《やえむぐら》しげれる宿」といいそうな姿である。
 そのほかにも桐や松や、柿や、椿、木犀《もくせい》、山茶花《さざんか》、八《や》つ手《で》、躑躅《つつじ》、山吹のたぐいも雑然と栽えてあるので草木繁茂、枝や葉をかき分けなければ歩くことは出来ない。
「狭いところへ好くも栽え込んだものだな」と、わたしは自分ながら感心した。狭い庭を藪にして、好んで藪蚊の棲み家を作っている自分の物好きを笑うよりも、こうして僅《わずか》に無趣味と殺風景から救われようと努めているバラック生活の寂しさを、今更のように考えさせられた。
 わたしの家ばかりでなく、近所の住宅といわず、商店といわず、バラックの家々ではみな草花を栽えている。二尺か三尺の空地にもダリヤ、コスモス、日まわり、白粉のたぐいが必ず栽えてあるのは、震災以前にかつて見なかったことである。われわれはこうして救われるの外はないのであろうか。
 わたしの現在の住宅は、麹町通《こうじまちどお》りの電車道に平行した北側の裏通りに面しているので、朝は五時頃から割引の電車が響く。夜は十二時半頃まで各方面から上って来る終電車の音がきこえる。それも勿論そうぞうしいには相違ないが、私の枕を最も強くゆすぶるものは貨物自動車と馬力である。これらの車は電車通りの比較的に狭いのを避けて、いずれもわたしの家の前の裏通りを通り抜けることにしているので、昼間はともあれ、夜はその車輪の音が枕の上に一層強く響いて来るのである。
 病中不眠|勝《がち》のわたしはこの頃その響きをいよいよ強く感じるようになった。夜も宵のあいだはまだ好い。終電車もみな通り過ぎてしまって、世間が初めてひっそり[#「ひっそり」に傍点]と鎮まって、いわゆる草木も眠るという午前二時三時の頃に、がたがた[#「がたがた」に傍点]といい、がらがら[#「がらがら」に傍点]という響きを立てて、殆《ほとん》ど絶間もなしに通り過ぎるトラックと馬力の音、殊《こと》に馬力は速力が遅く、かつは幾台も繋がって通るので、枕にひびいている時間が長い。
 病中わたしに取って更に不幸というべきは、この夜半の馬力が暑いあいだ最も多く通行することである。なんでも多摩川のあたりから水蜜桃や梨
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