などの果物の籠を満載して、神田の青物市場へ送って行くので、この時刻に積荷を運び込むと、あたかも朝市の間に合うのだそうである。その馬力が五台、七台、乃至《ないし》十余台も繋がって行くのは、途中で奪われない用心であるという。いずれにしても、それがこの頃のわたしを悩ますことは一通りでない。
「これほどに私を苦しめて行くあの果物が、どこの食卓を賑《にぎ》わして、誰の口に這入《はい》るか。」
 わたしは寝ながらそんなことを考えた。それに付けて思い出されるのは、わたしが巴里《パリ》に滞在していた頃、夏のあかつきの深い靄《もや》が一面に鎖《とざ》している大きい並木の町に、馬の鈴の音がシャンシャン聞える。靄に隠されて、馬も人も車もみえない。ただ鈴の音が遠く近くきこえるばかりである。それは近在から野菜や果物を送って来る車で、このごろは桜ん坊が最も多いということであった。それ以来わたしは桜ん坊を食うたびに、並木の靄のうちに聞える鈴の音を思い出して、一種の詩情の湧いて来るのを禁じることが出来ない。
 おなじ果物を運びながらも、東京の馬力では詩趣もない、詩情も起らない。いたずらに人の神経を苛立《いらだ》たせるばかりである。

     雁と蝙蝠

 七月二十四日。きのうの雷雨のせいか、きょうは土用に入ってから最も凉しい日であった。昼のうちは陰《くも》っていたが、宵には薄月のひかりが洩れて、凉しい夜風が簾《すだれ》越しにそよそよ[#「そよそよ」に傍点]と枕元へ流れ込んで来る。
 病気から例の神経衰弱を誘い出したのと、連日の暑気と、朝から晩まで寝て暮しているのとで、毎晩どうも安らかに眠られない。今夜は凉しいから眠られるかと、十時頃から蚊帳《かや》を釣らせることにしたが、窓をしめ、雨戸をしめると、やはり蒸暑い。十一時を過ぎ、十二時を過ぎて、電車の響きもやや絶え絶えになった頃から少しうとうと[#「うとうと」に傍点]して、やがて再び眼をさますと、襟首には気味のわるい汗が滲んでいる。その汗を拭いて、床の上に起き直って団扇《うちわ》を使っていると、トタン葺の屋根に雨の音がはらはら[#「はらはら」に傍点]ときこえる。そのあいだに鳥の声が近くきこえた。
 それは雁の鳴く声で、御堀の水の上から聞えて来ることを私はすぐに知った。御堀に雁の群が降りて来るのは珍しくないが、それには時候が早い。土用に入ってまだ幾日も過ぎないのに、雁の来るのはめずらしい。群に離れた孤雁が何かの途惑いをして迷って来たのかも知れないと思っていると、雁は雨のなかに二声三声つづけて叫んだ。
 しずかにそれを聴いているうちに、私の眼のさきには昔の麹町《こうじまち》のすがたが浮び出した。そこには勿論自動車などは通らなかった。電車も通らなかった。スレート葺やトタン葺の家根も見えなかった。家根といえば瓦葺か板葺である。その家々の家根の上を秋風が高く吹いて、ゆう日のひかりが漸く薄れて来るころに、幾羽の雁の群が列をなして大空を高く低く渡ってゆく。巷《ちまた》に遊んでいる子供たちはそれを仰いで口々に呼ぶのである。
「あとの雁が先になったら、笄《こうがい》取らしょ。」
 わたしも大きな口をあいて呼んだ。雁の行《つら》は正しいものであるが、時にはその声々に誘われたように後列の雁が翼を振って前列を追いぬけることがある。あるいは野に伏兵ありとでも思うのか、前列後列が俄《にわか》に行を乱して翔《かけ》りゆく時がある。空飛ぶ鳥が地上の人の号令を聞いたかのように感じられた時、子供たちは手を拍《う》って愉快を叫んだ。そうして、その鳥の群が遠くなるまで見送りながら立尽していると、秋のゆうぐれの寒さが襟にしみて来る。
 秋になると、毎年それをくり返していたので、私に取っては忘れがたい少年時代の思い出の一つとなっているが、この頃では秋になっても東京の空を渡る雁の影も稀になった。まして往来のまん中に突っ立って、「笄取らしょ」などと声を嗄《か》らして叫んでいるような子供は一人もないらしい。
 雁で思い出したが、蝙蝠も夏の宵の景物の一つであった。
 江戸時代の錦絵には、柳の下に蝙蝠の飛んでいるさまを描いてあるのをしばしば見る。粋な芸妓などが柳橋あたりの河岸をあるいている、その背景には柳と蝙蝠を描くのが殆《ほとん》ど紋切形のようにもなっている。実際、むかしの江戸市中には沢山|棲《す》んでいたそうで、外国や支那の話にもあるように、化物屋敷という空家を探険してみたらば、そこに年《とし》古《ふ》る蝙蝠が棲んでいるのを発見したというような実話がいくらも伝えられている。大きい奴になると、不意に飛びかかって人の生血を吸うのであるから、一種の吸血鬼といってもよい。相馬の古御所の破れた翠簾《すいれん》の外に大きい蝙蝠が飛んでいたなどは、確かに一段の鬼気を添えるも
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