本文《ほんもん》と思ってください。

「お父《とっ》さん、怖いよう。」
 今までおとなしく遊んでいた太吉が急に顔の色を変えて、父の膝に取りついた。親ひとり子ひとりでこの山奥に年じゅう暮らしているのであるから、寂しいのには馴れている。猿や猪を友達のように思っている。小屋を吹き飛ばすような大あらしも、山がくずれるような大雷鳴《おおかみなり》も、めったにこの少年を驚かすほどのことはなかった。それがきょうにかぎって顔色をかえて顫《ふる》えて騒ぐ。父はその頭をなでながら優しく言い聞かせた。
「なにが怖い。お父さんはここにいるから大丈夫だ。」
「だって、怖いよ。お父さん。」
「弱虫め。なにが怖いんだ。そんな怖いものがどこにいる。」と、父の声はすこし暴《あら》くなった。
「あれ、あんな声が……。」
 太吉が指さす向うの森の奥、大きい樅《もみ》や栂《つが》のしげみに隠れて、なんだか唄うような悲しい声が切れ切れにきこえた。九月末の夕日はいつか遠い峰に沈んで、木の間から洩れる湖のような薄青い空には三日月の淡い影が白銀《しろがね》の小舟のように浮かんでいた。
「馬鹿め。」と、父はあざ笑った。「あれがなんで怖
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