木曽の怪物
――「日本妖怪実譚」より
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)拠《よんどこ》ろ

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)又|立止《たちどま》る

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)顫《ふる》えて[#「顫《ふる》えて」は底本では「顛《ふる》えて」]
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 これは亡父の物語。頃は去る明治二十三年の春三月、父は拠《よんどこ》ろなき所用あって信州軽井沢へ赴いて、凡《およ》そ半月ばかりも此の駅《しゅく》に逗留していた。東京では新暦の雛の節句、梅も大方は散《ちり》尽《つ》くした頃であるが、名にし負う信濃路は二月の末から降《ふり》つづく大雪で宿屋より外へは一歩《ひとあし》も踏出されぬ位、日々炉を囲んで春の寒さに顫《ふる》えて[#「顫《ふる》えて」は底本では「顛《ふる》えて」]いると、ある日の夕ぐれ、山の猟師が一匹、鹿の鮮血《なまち》滴るのを担いで来て、何《ど》うか買って呉れという。ソコで其の片股《かたもも》だけ買う事に決めて、相当の価《あたい》を払い、若《もし》も暇ならば遊びに来いと云うと、田舎漢《いなかもの》の正直、其の夜再び出直して来た。此方《こっち》も雪に降籠められて退屈の折柄、其の猟師と炉を囲んで四方山の談話《はなし》に時を移すと、猟師曰く、私《わし》は何十年来この商売を為《し》ていますが、この信州の山奥では時々に不思議な事があります、私共の仲間では此れを一口に『怪物《えてもの》』と云いまして、猿の所為《しわざ》とも云い、木霊《こだま》とも云い、魔とも云い、その正体は何だか解りませんが、兎にかく怪しい魔物が住んでいるに相違ありません。と、冒頭《まくら》を置いて語り出したのが、即ち次の物語だ。因《ちなみ》に記す、右の猟師は年のころ五十前後で、いかにも朴訥で律儀らしく、決して嘘などを吐くような男でない。
 昔からのお噺《はなし》をすれば種々《いろいろ》あるが、先ず近い所では現に三四年前、私が二人の仲間と一所に木曽の山奥へ鳥撃に出かけた事がある。そういう時には、一日は勿論、二日三日も山中を迷い歩く事があるから、用心の為に米または味噌、鍋釜の類まで担いで行く。で、日の暮れかかる頃、山奥の大樹の蔭に休んで、ここに釜を据え、有合《ありあ》う枯枝や落葉を拾って釜の下を焚付け、三人寄って夕飯の支度をしている中《うち》、一人が枯枝を拾う為に背後《うしろ》の木かげへ分入《わけい》ると、ここに大きな池があって、三羽の鴨が岸の浅瀬に降りている。這奴《こいつ》、幸いの獲物、此方《こっち》が三人に鳥が三羽、丁度お誂え向だと喜んで、忍び足で其の傍《そば》へ寄ると、鴨は人を見て飛ばず驚かず、徐《しず》かに二足ばかり歩いて又|立止《たちどま》る、この畜生めと又追縋ると、鴨は又もや二足ばかり歩む、歩めば追い、追えば歩み、二三|間《げん》ばかりも釣られて行く時、他の一人が此の体《てい》を見て、オイオイ止せよせ、例の怪物《えてもの》に相違ねえよと、声をかける。成程と心付いて其のまま引返《ひっかえ》して、私に其の噺をするから、ハテ不思議だと三人一所に、再び其の木かげへ往って見ると、エエ何の事だ、鴨は扨《さて》措いて、第一に其の池もない、扨はいよいよ怪物の所為《しわざ》だと、猶《なお》能《よ》くよく四辺《あたり》を見ると、其の辺は一面の枯草に埋っていて、三間ばかり先は切ッ立《たて》の崖になっているので、三人は思わず悸然《ぎょっ》として、若《もし》もウカウカと鴨に釣られて往こうものなら、此の崖から逆落しに滑り落ちるに相違なく、仮《たと》え生命に別条ないとしても、屹《きっ》と大怪我をする所だ、アア危いと顔を見合せて、旧《もと》の処へ引返すと、釜の下は炎々と燃上《もえあが》って、今にも噴飛《ふきとば》しそうに釜の蓋がガタガタ跳《おど》っている。ヤア飯が焦げるぞと、私が慌てて其の釜の蓋を取ると、中から湯気が真白に噴上げる、其の煙の中に大きな真青な人間《ひと》の顔がありありと現われたから、コリャ大変だいよいよ怪物だと、一生懸命に釜の蓋を上から押えて、畜生、畜生ッ、オイ早く鉄砲を撃てと怒鳴る。他の二人も心得て、何処を的《あて》ともなしにドンドン鉄砲を撃つこと二三発、それから再び釜を覗いて見るとモウ何物《なんに》も見えない。
 山又山の奥ふかく分入《わけい》ると、斯《こ》ういう不思議が毎々あるので、忌々しいから何《ど》うかして其の正体を見とどけて、一番退治して遣ろうと、仲間の者とも平生《つねづね》申合せているけれども、今に其の怪物の姿を見現わした者がないのは残念です。モウ一つ不思議なのは、これも二三年前の事、私が木曽の山の麓路《ふもとじ》を通ると、商人《あきんど》らしい風俗の旦那と手代二人が、木かげ
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