に立って珍らしそうに山を見あげているから、モシモシ何を御覧なさると近寄って尋ねると、旦那らしい人が山の上を指さして、アレ御覧なさい、アノ坊さんの担いでいる毛鑷《けぬき》の大きい事、実に珍らしいと云う。ハテ可怪《おかし》な事をいうと思いながら、指さす方を見あげたが、私の眼には何物《なんに》も見えない。扨は例の怪物だナと悟ったから、この畜生めッと直ぐに鉄砲を向けると、其の人は慌てて私の手を捉え、アアモシ飛《とん》だ事を為さる、アノ坊さんに怪我でも為《さ》せては大変ですと、無理に抑留《ひきと》める。で、其の人の云うには、私《わたし》は上田の鉄物商《かなものや》兼|研職《とぎや》で、商売用の為《た》め今日ここを通ると、アノ坊さんが大きな毛鑷を引担《ひっかつ》いで山路《やまみち》を登って行く、私も親の代から此の商売をしてるが、あんなに大きな毛鑷を見た事がないから、奉公人も私も肝《きも》を潰して見ている所だとの事。併《しか》しそんな事のあろう筈もなく、私《わし》の眼には一向見えないのが第一の証拠、あれは例の怪物に相違ないと、委《くわ》しく云って聞かせると、其の人達も驚いた様子で、成程そう云えばモウ其の坊主の姿は見えなくなったと云う。何しろ憎い畜生め、今日こそは退治て呉れようと、鉄砲を小脇に其の山路を一散に駈《かけ》あがり、其処かここかと詮議したけれども、別に怪しい物の姿も見えないからアア残念ナと再び麓へ降りて来ると、彼《か》の商人はモウ立去ったと見えて、其処には誰も居ない。で、其の商人は本当の人間で、全く怪物に化《ばか》されたものか、但しは其の商人が怪物で、私に無駄骨を折らせたものか、何方《どっち》が何《ど》うとも今に分らぬけれども、何方にしても不思議な事で、私も流石《さすが》に薄気味が悪くなって、その日は其のまま帰って了《しま》ったが、私ばかりでなく、仲間の者も折々に斯《こ》ういう目に遭いますから、山へ出る時には用心を為《し》にゃあなりません、云云《しかじか》。 (麹生)
[#地付き](「文芸倶楽部」明治三十五年七月号掲載「日本妖怪実譚」より)
底本:「伝奇ノ匣2 岡本綺堂妖術伝奇集」学研M文庫、学習研究社
2002(平成14)年3月29日初版発行
底本の親本:「文芸倶楽部 日本妖怪実譚」
1902(明治35)年7月
※表題は底本では、「木曽の怪物《えてもの》」となっています。
※底本の解説によれば、初出時の署名は「麹生」です。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2008年9月23日作成
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