、大事の男をおめおめ手放してしまって、今更とらえようもない昔の夢にあこがれて、毎日泣いているのも無理はないとも思われた。いじらしい夕雛の泣き顔を見れば、綾衣も涙がこぼれた。
しかしあの人と自分とは性根の据え方が違うと、彼女はいつも誇るように考えていた。
どんなに性根を強く据えていても、さすがは人間の悲しさに、綾衣はだんだん薄れてゆく自分のさびしい影を、じっと見つめているのは苦しかった。この頃はこめかみ[#「こめかみ」に傍点]の痛む日が多かった。胸の痛む日が多かった。取り分けてきょうは雪冷えのせいか、脾腹《ひばら》から胸へかけて差し込みが来るように思われた。
「綾鶴さん、綾鶴さん」
低い声で呼んだが、次の間で返事がなかった。二度も三度も呼ばれて、綾鶴はようように寝ぼけたような声を出した。
「花魁。なんざいますね」
「お湯を一杯おくんなんし」
「あい、あい」
藤の比翼絞《ひよくもん》を染めた湯呑みを盆にのせて、綾鶴は腫《は》れぼったい眼をしてはいって来た。いつもの薬を煎じようかと言ったが、綾衣はいらないと言った。明けても暮れても薬ばかり飲んでいては生きている甲斐がないと、彼女はさび
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