は俄かに明るくなったように春めいて来た。十吉の庭も急に霜どけがして、竹垣の隅には白い梅がこぼれそうに咲き出した。
この話の舞台になっている天明のころの箕輪《みのわ》は、龍泉寺《りゅうせんじ》村の北につづいた寂しい村であった。そのむかしは御用木として日本堤《にほんづつみ》に多く栽《う》えられて、山谷《さんや》がよいの若い男を忌《いや》がらせたという漆《うるし》の木の香《にお》いがここにも微かに残って、そこらには漆のまばらな森があった。畑のほかには蓮池《はすいけ》が多かった。
十吉の小さい家も北から西へかけて大きい蓮池に取り巻かれていた。
「いいお天気ね」と、お米はうららかな日に向かってまぶしそうな眼をしばだたきながら、思い出したように話しかけた。
「たいへん暖かくなったね。もうこんなに梅が咲いたんだもの、じきに初午《はつうま》が来る」
「よし原の初午は賑やかだってね」
「むむ、そんな話だ」
箕輪から京間《きょうま》で四百|間《けん》の土手を南へのぼれば、江戸じゅうの人を吸い込む吉原の大門《おおもん》が口をあいている。東南《たつみ》の浮気な風が吹く夜には、廓《くるわ》の唄や鼓《つづみ
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