っているのを、外記が救いの手をひろげて庇《かば》ってくれた。そのおかげで先祖伝来の小さい田畑も人手に渡さずに取り留めて、十吉がともかくも一人前の男になるまで、母子《おやこ》が無事に生きて来たのであった。
「番町さまのありがたい御恩を忘れちゃ済まないぞ」と、お時は口癖のように我が子に言い聞かしていた。外記とはいわゆる乳兄弟《ちきょうだい》のちなみもあるので、お時が番町の屋敷へ行くたびに、外記の方からも常に十吉の安否をたずねてくれた。それがまたお時に取っては此の上もない有難いことのように思われていた。
 ことしは外記が二十五の春である。もうそろそろ奥様のお噂でもあることかと、お時はことしの御年始にあがるのを心待ちにしていたが、それでも相手は歴々のお武家であるから、具足びらきの御祝儀の済むまではわざと遠慮して、十二日のきょう急いで山の手へのぼったのである。行って見ると、主人の外記は留守であった。妹のお縫がいつもの通りに愛想《あいそ》よくもてなしてはくれたが、なんとなくその若い美しい顔に暗い影が掩《おお》っていた。屋敷のうちも喪《も》にこもったようにひっそりと沈んでいて、どこにも春らしい光りの見えないのがお時の眼についた。
 久し振りに訪ねて来たお時に、春早々から悪い耳を聞かせたくないと思ったのであろう、お縫も初めはなんにも言わなかったが、話がだんだん進むにつれて、いくら武家育ちでも女は女の愚痴が出て、お縫の声は陰って来た。
 お時もおどろいた。
 外記は今まで番士を勤めていたが、去年の暮れに無役《むやく》の小普請《こぶしん》入りを仰せつかったというのであった。尤《もっと》もお役を勤めていると余計な費用がかかるというので、自分から望んで小普請組にはいる者も無いではないが、無役では出世の見込みはない。一生うもれ木と覚悟しなければならない。年の若い外記が自分から進んで腰抜け役の小普請入りなどを願う筈がないのは、彼が日ごろの性質から考えても判っている。これには何か子細があるに相違ないと、さらに進んで詮索するとお時はまた驚かされた。外記が小普請入りの処分を受けたのは身持|放埒《ほうらつ》の科《とが》であった。
 お縫の話によると、外記はおととしの秋頃から吉原へかよい始めて、大菱屋《おおびしや》の綾衣《あやぎぬ》という遊女と深くなった。それについてはお縫も意見した。用人の堀部|三左衛門《さんざえもん》も諫《いさ》めた。取り分けて叔父の吉田|五郎三郎《ごろうさぶろう》からは厳しく叱られたが、叔父や妹や家来どもの怒りも涙も心づかいも、情に狂っている若い馬一匹をひきとめる手綱《たづな》にはならなかった。馬は張り切った勢いで暴《あば》れまわった。暴馬《あれうま》は厩《うまや》に押しこめるよりほかはない。外記は支配|頭《がしら》の沙汰として、小普請組という厩に追い込まれることになった。
 家の面目と兄の未来とをしみじみ考えると、これだけのことを話すにも、お縫は涙がさきに立った。俯向《うつむ》いて一心に聴いているお時も、ただ無暗に悲しく情けなくなって、着物の膝のあたりが一面にぬれてしまうほどに熱い涙が止めどなしにこぼれた。
「まあ、どうしてそんな魔が魅《さ》したのでござりましょう」
 学問も出来、武芸も出来、情け深いのは親譲りで、義理も堅く、道理もわきまえている殿様が、廓《くるわ》の遊女に武士のたましいを打ち込んで、お上《かみ》の首尾を損じるなどとは、どう考えても思い付かないことであった。魔が魅したとでも言うよりほかはなかった。
 しかし今となっては、誰の力でもどうすることも出来ないのは判り切っていた。小普請入りといっても、必ず一生涯とばかりは限らない。本人の身持ちが改まって確かに見どころがあると決まれば、またお召出しとなるかも知れないというのをせめてもの頼みにして、お時はお縫に泣いて別れた。
 帰りぎわに用人の三左衛門にも逢った。彼は譜代《ふだい》の家来であった。五十以上の分別ありげな彼の顔にも、苦労の皺《しわ》がきざんでいるのがありありと見えた。
「いろいろ御苦労がございますそうで……」と、お時は涙を拭きながら挨拶した。
「お察し下さい」
 三左衛門はこう言ったばかりで、さすがに愚痴らしいことはなんにも口に出さなかったが、大家《たいけ》の用人として定めて目に余る苦労の重荷があろう。それを思うと、お時は胸がまたいっぱいになった。
 初めはまっすぐに帰る心づもりであったが、この話を聞いたお時は今にも藤枝のお家《いえ》が亡びるようにも感じられたので、彼女《かれ》は番町の屋敷を出ると、さらに市ヶ谷までとぼとぼ[#「とぼとぼ」に傍点]と辿《たど》って行った。
 叔父の吉田の屋敷は市ヶ谷にあった。彼は三百五十石で、藤枝にくらべると小身ではあるが、先代の外記の肉身の
前へ 次へ
全25ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング