弟で、いまの外記が番入りをするまでは後見人として支配頭にも届け出してあった。父なき後は叔父を父と思えというこの時代の習わしによっても、外記の頭をもっとも強くおさえる力をもっている人は、この吉田の叔父よりほかになかった。思いあまったお時は念のために吉田に一度逢って、その料簡《りょうけん》をきいて置こうと思ったのである。
 奥様に恐る恐る目通りを願ったのであるが、ちょうど非番で屋敷に居合せた主人の五郎三郎はこころよく逢ってくれた。
 お時の主《しゅう》思いは五郎三郎もかねて知っているので、打ち明けていろいろの内輪話をしてくれた。今となっては仕方がない。それもおれが監督不行届きからで、お前たちにも面目ないと五郎三郎はしみじみと言った。しかし本人の性根さえ入れ替われば再び世に出る望みがないでもない。今度の不首尾に懲りて彼がきっと謹慎するようになれば、毒がかえって薬になるかも知れない。しばらくは其のままにして彼の行状《ぎょうじょう》を見張っているつもりだと、五郎三郎はまた言い聞かした。奥様もお時に同情して親切に慰めてくれた上に、帰る時には品々の土産物までくれた。有難いと悲しいとで、お時はここでも泣いて帰った。
 母が帰りの遅かったのも、土産物の多かったのも、こうした訳と初めて判って見ると、十吉も悠々と飯を食っている気にはなれなかった。食いかけの飯に湯をぶっかけて、夢中ですすり込んでしまった。膳を片付けてお時が炉の前にしょんぼりと坐ると、十吉はうす暗い行燈《あんどう》を持ち出して来た。
 母子は寂しい心持ちで行燈の火のちらちら[#「ちらちら」に傍点]と揺れるのを黙って見つめていた。日が暮れて東の風がだいぶ吹き出したらしい。軒にかけてある蕪菁《かぶら》の葉が乾いた紙を揉《も》むようにがさがさ[#「がさがさ」に傍点]と鳴った。
「風が出たようだね。昼間と夜とは陽気が大違いだ」と、お時は寒そうに肩をすくめて雨戸を閉めに出た。
 今夜は悪い風が吹くので、廓《くるわ》の騒ぎ唄が人の心をそそり立てるように、ここらまで近くながれて来た。暗い長い堤には駕籠屋の提灯が狐火のように宙に飛んでいた。その火のふい[#「ふい」に傍点]と消えて行くあたりに、廓の華やかな灯が一つに溶け合って、幾千人の恋の焔が天をこがすかとばかりに、闇夜の空をまぼろしのように紅《あか》くぼかしていた。
 殿様は今夜もあの灯の中に溺れているのではあるまいかと、お時は寒い夜風にひたいを吹かれながら、いつまでも廓の紅い空をじっと眺めていた。

     二

 お時が案じていた通り、外記は丁度そのころ吉原の駿河屋《するがや》という引手茶屋《ひきてぢゃや》に酔っていた。
 二階座敷の八畳の間《ま》は襖も窓も締め切って、大きい火鉢には炭火が青い舌を吐いていた。外の寒さを堰《せ》き止められて、なまあたたかく淀んだ空気のなかに、二つの燭台の紅い灯はさながら動かないもののように真っ直ぐにどんよりと燃え上がって、懐ろ手の外記がうしろにしている床《とこ》の間《ま》の山水の一軸をおぼろに照らしていた。青銅《からかね》のうす黒い花瓶の中から花心《しべ》もあらわに白く浮き出している梅の花に、廓の春の夜らしいやわらかい匂いが淡《あわ》くただよっていた。外記の前には盃台が置かれて、吸物椀や硯蓋《すずりぶた》が型の如くに列《なら》べてあった。
 相手になっているのは眉の痕のまだ青い女房で、口は軽くても行儀のいいのが、こうした稼業の女の誇りであった。茶色の紬《つむぎ》の薄い着物に黒い帯をしゃんと結んで、おとなしやかに控えていた。
「花魁《おいらん》ももうお見えでござりましょう。まずちっとお重ねなされまし」と、彼女が銚子をとろうとすると、外記は笑いながら頭《かぶり》をふった。
「知っての通り、おれは余り酒は飲まないのだから、まあ堪忍してくれ。このうえ酔ったらもう動けないかも知れない」
 男には惜しいような外記の白い頬には、うすい紅《べに》が流れていた。
「よろしゅうござります。殿様が動けなくおなり遊ばしたら、新造《しんぞう》衆が抱いて行って進ぜましょう。たまにはそれも面白うござります」と、女房は口に手を当てて同じように笑っていた。
「いや、まだよいよい[#「よいよい」に傍点]にはなりたくない」と、外記も同じように笑っていた。
「それにしても花魁の遅いこと、もう一度お迎いにやりましょう」
 女房は会釈《えしゃく》して階子《はしご》を軽く降りて行った。
「ああ、そんなに急《せ》き立てるには及ばない」と、外記がうしろから声をかけた時には、女房の姿はもう見えなかった。
 実際そんなに急ぐには及ばない。急ぐと思われては茶屋の女房の手前、さすがにきまりが悪いようにも外記は思った。きのうは具足《ぐそく》開きの祝儀というので、よんどころ
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