た。どこかで鶏《とり》が啼いていた。二人はさっきから一面の明るい日を浴びて、からだが少しだるくなるほどに肉も血も温まって来た。二人の若い顔は艶《あで》やかに赤くのぼせた。
「阿母《おっか》さんは遅いなあ」と、十吉は薄ら眠いような声でつぶやいた。
「番町《ばんちょう》のお屋敷へ行ったの」
「むむ。もう帰るだろう」
 こんな噂をしていたが、母は容易に帰らなかった。お時が家を出たのはけさの四つ(午前十時)であった。女の足で箕輪から山の手の番町まで往復するのであるから、時のかかるのは言うまでもないが、それにしてもちっと遅過ぎると十吉は案じ顔に言った。お米もなんだか不安に思われたので、七《なな》つ(午後四時)過ぎまで一緒に待ち暮らしていると、お時《とき》は元気のない顔をしてとぼとぼ[#「とぼとぼ」に傍点]と帰って来た。
「おや、お米坊も一緒に留守番をしていておくれだったの」
「おばさん、又あした来ますよ」
 母が無事に帰ったのを見とどけて、お米も自分の家《うち》へいそいで帰った。お米の家は同じ村のはずれにあった。今まで長閑《のどか》そうにかかっていた凧《たこ》の影もいつか夕鴉《ゆうがらす》の黒い影に変わって、うす寒い風が吹き出して来た。
 お時は一張羅《いっちょうら》の晴れ着をぬいで、ふだん着の布子《ぬのこ》と着替えた。それから大事そうに抱えて来た大きい風呂敷包みをあけて、扇子や手拭や乾海苔や鯣《するめ》などをたくさんに取り出した。
「お屋敷から頂いて来たんだね」と、十吉もありがたそうに覗《のぞ》いた。
 お時は番町のお屋敷へあがるたびに、いろいろのお土産を頂いて帰るのが例であった。殊にきょうは初春の御年始に伺ったのであるから、何かの下され物はあるだろうと十吉は内々予期してはいたものの、いつもと違ってその分量の多いのに驚かされた。
 日が落ちると急に冷えて来て、春のまだ浅い夕暮れの寒さは、江戸絵を貼った壁の破れから水のように流れ込んで来た。十吉は炉の火をかきおこして夕飯《ゆうめし》の支度にかかった。お時は膳にむかったが、碌《ろく》ろく箸もとらないでぼんやりしていた。
「きょうはお屋敷で御馳走でもあったのかね」と、十吉は笑いながら訊《き》いた。
「どうも困ったことが出来たもんだよ」
 溜め息をついている母の屈託《くったく》らしい顔をのぞいて、十吉も思わず箸をやめた。
「なんだね。お屋敷に何か悪いことでもあったのかね」
「むむ。だが、滅多《めった》にひとに言うのじゃないぞ」と、お時は小声に力をこめて言った。
 話さないさきから厳重に口止めをされて、十吉も変な顔をして黙っていた。
「番町の殿様、飛んでもない道楽者におなりなすったとよ。情けない」
 お時はほろり[#「ほろり」に傍点]とした。十吉はまた箸をやめて、炉の火にひかる母の眼の白い雫《しずく》をうっかりと見つめていた。
 この母子《おやこ》がお屋敷というのは、麹町《こうじまち》番町《ばんちょう》の藤枝外記《ふじえだげき》の屋敷であった。藤枝の家は五百石の旗本で、先代の外記は御書院の番頭《ばんがしら》を勤めていた。当代の外記が生まれた時に、縁があってこのお時が乳母に抱えられた。お時はそのときにお光という娘をもっていたが、生まれて一年ばかりで死んでしまったので、彼女《かれ》は乳の出るのを幸いに藤枝家へ奉公することになった。それはお時が二十二の夏であった。
 殿様も奥様も情けぶかい人であった。いい主人を取り当てたお時は奉公大事に勤め通して、若様が五つのお祝いが済んだとき無事にお暇《いとま》が出た。それから三年目に奥様は更にお縫《ぬい》という嬢様を生んだが、その頃にはお時も丁度かの十吉を腹に宿していたので、乳母はほかの女をえらばれた。しかし御嫡子《ごちゃくし》の若様にお乳《ちち》をあげたという深い縁故をもっている彼女は、その後も屋敷へお出入りを許されて御主人からは眼をかけられていた。正直いちずなお時はよくよくこれを有難いことに心得て、年頭や盂蘭盆《うらぼん》には毎年かかさずお礼を申上げに出た。
 そのうちに年が経って、殿様も奥様もお時に泣く泣く送られて、いずれも赤坂の菩提寺《ぼだいじ》へ葬られてしまった。家督《かとく》を嗣いだ嫡子の外記は十六歳で番入りをした。勿体《もったい》ないが我が子のようにも思っている若様、どうぞ末長く御出世遊ばすようにと、お時は浅草の観音さまへ願《がん》をかけて、月の朔日《ついたち》と十五日には必ず参詣を怠らなかった。
「おれが家督をとるようになったら、きっとお前の世話をしてやるぞ」
 子供の時からそう言っていた外記は、約束を忘れるような男ではなかった。彼が家督を相続した頃には、運のわるいお時はもう嬬婦《ごけ》になってしまって、まだ八つか九つの十吉を抱えて身の振り方にも迷
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