箕輪心中
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)お米《よね》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)四百|間《けん》の

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「日+向」、第3水準1−85−25]
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     一

 お米《よね》と十吉《じゅうきち》とは南向きの縁に仲よく肩をならべて、なんにも言わずに碧《あお》い空をうっとりと見あげていた。
 天明《てんめい》五年正月の門松《かどまつ》ももう取られて、武家では具足びらき、町家では蔵《くら》びらきという十一日もきのうと過ぎた。おととしの浅間山《あさまやま》の噴火以来、世の中が何となくさわがしくなって、江戸でも強いあらしが続く。諸国ではおそろしい飢饉《ききん》の噂がある。この二、三年はまことに忌《いや》な年だったと言い暮らしているうち、暦はことしと改まって、元日から空《から》っ風の吹く寒い日がつづいた。五日の夕方には少しばかりの雪が降った。
 それから天気はすっかり持ち直して、世間は俄かに明るくなったように春めいて来た。十吉の庭も急に霜どけがして、竹垣の隅には白い梅がこぼれそうに咲き出した。
 この話の舞台になっている天明のころの箕輪《みのわ》は、龍泉寺《りゅうせんじ》村の北につづいた寂しい村であった。そのむかしは御用木として日本堤《にほんづつみ》に多く栽《う》えられて、山谷《さんや》がよいの若い男を忌《いや》がらせたという漆《うるし》の木の香《にお》いがここにも微かに残って、そこらには漆のまばらな森があった。畑のほかには蓮池《はすいけ》が多かった。
 十吉の小さい家も北から西へかけて大きい蓮池に取り巻かれていた。
「いいお天気ね」と、お米はうららかな日に向かってまぶしそうな眼をしばだたきながら、思い出したように話しかけた。
「たいへん暖かくなったね。もうこんなに梅が咲いたんだもの、じきに初午《はつうま》が来る」
「よし原の初午は賑やかだってね」
「むむ、そんな話だ」
 箕輪から京間《きょうま》で四百|間《けん》の土手を南へのぼれば、江戸じゅうの人を吸い込む吉原の大門《おおもん》が口をあいている。東南《たつみ》の浮気な風が吹く夜には、廓《くるわ》の唄や鼓《つづみ》のしらべが手に取るようにここまで歓楽のひびきを送って、冬枯れのままに沈んでいるこの村の空気を浮き立たせることもあるが、ことし十八とはいうものの、小柄で内端《うちわ》で、肩揚げを取って去年元服したのが何だか不似合いのようにも見えるほどな、まだ子供らしい初心《うぶ》の十吉にとっては、それがなんの問題にもならなかった。
 たとい昼間は鋤《すき》や鍬《くわ》をかついでいても、夜は若い男の燃える血をおさえ切れないで、手拭を肩にそそり節《ぶし》の一つもうなって、眼のまえの廓をひと廻りして来なければどうしても寝つかれないという村の若い衆の群れから、十吉は遠く懸け離れて生きていた。ありゃあまだ子供だとひとからも見なされていた。十六の秋、母のお時といっしょに廓の仁和賀《にわか》を見物に行ったとき、海嘯《つなみ》のように寄せて来る人波の渦に巻き込まれて、母にははぐれ、人には踏まれ、藁草履《わらぞうり》を片足なくして、危うく命までもなくしそうになって逃げて帰って来たことがあった。十吉が吉原の明るい灯を近く見たのは、あとにもさきにもその一度で、仲《なか》の町《ちょう》の桜も、玉菊《たまぎく》の燈籠も、まったく別の世界のうわさのように聞き流していた。
「あたし、まだ一度も吉原の初午へ行ったことがないから、ことしは見に行こうか知ら。え、十《じゅう》さん、一緒に行かないか」
 顔を覗いて少し甘えるように誘いかけられても、十吉はなんだか気の乗らないような返事をしているので、お米もしまいには面白くないような顔をして、子供らしくすねて見せた。
「お前、あたしと一緒に行くのはいやなの」
「いやじゃないけれども詰まらない。初午ならば向島へ行って、三囲《みめぐ》りさまへでも一緒にお詣りをした方がいいよ」
「でも、吉原の方が賑やかだというじゃあないか」と、お米はまだ吉原の方に未練があった。
「賑やかでもあんなところはいやだ、詰まらない」
 十吉は頻《しき》りに詰まらないと言った。二人は来月の初午について今から他愛なく争っていたが、結局らちが明かなかった。
「十さん、吉原は嫌いだね」
「むむ」
 二人はまた黙って空を仰ぐと、消え残った雲のような白い雪が藁《わら》屋根の上に高くふわりと浮かんでいた。遠い上野の森は酔ったように薄紅く霞んで、龍泉寺から金杉の村々には、小さな凧《たこ》が風のない空に二つ三つかかってい
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