ないので断わったが、あの時に請け出されていたら今頃はどうなっているだろうなどとも考えた。お米と十吉とがやっぱり羨ましくも思われた。
 表はすっかり暮れてしまって、暗い空にはかぞえるほどの少ない星が弱々しく光っていた。露のおもい夜の空気は冷やびやと人の肌に触れた。村の家々では迎い火を焚きはじめた。竹籬《たけがき》のあいだや軒下に寂しい火の光りがちらちら[#「ちらちら」に傍点]ひらめいて、黒い人影や白い浴衣が薄暗いなかに動いていた。お時も焙烙《ほうろく》に苧殻《おがら》を入れて庭の入り口に持ち出した。やがて火打ちの音がやむと、お時の手を合わせている姿が火の前にぼんやりと浮き出した。
 白い帷子《かたびら》を着ている外記が、いつの間にか苧殻の白い煙りの中に立っていた。お時はようよう気がついた。
「ああ、殿様」と、彼女は表を窺いながら小声で言った。「ほかに誰もおりませぬ。さあ、お通り遊ばしませ」
 外記は編笠《あみがさ》をぬいで縁にあがった。お時は迎い火を消して、同じく内にはいった。
 外記がはいって来た気配を知ると、綾衣は眼が醒めたように俄かに晴れやかな気分になって、今まで何を考えていたかも忘れてしまった。浄閑寺の鉦も耳へははいらなくなった。彼女はついと起って襖を明けて、男の顔を見て眼で笑った。
「相変らず藪蚊がひどうござります」と、お時は奥へ蚊帳《かや》を吊りに行ったあいだに、綾衣は縁に近いところへ出て坐った。そこにある渋団扇をとって軽くあおぐと、薄化粧の白粉の匂いはほんのりと流れて、やわらかい風をそよそよと男に送った。
「今夜は廓の騒唄《さわぎ》が一向きこえないようだな」と、外記は縁の柱にもたれながら耳を傾けた。
 綾衣は笑い出した。
「ほほ、ぬしにも似合わないことを言いなんす。きょうは盆の十三日で、廓は休みでおざんすものを……」
「なるほど今日は十三日か」と、外記も笑った。
 綾衣もまた笑った。
 他愛もないことが堪まらなくおかしいように笑う女の声があまり華やかに聞えるので、お時は表に眼をくばった。彼女は追い立てるように二人を蚊帳の中へ送り込んで、間《あい》の襖を閉め切った。
 お米も十吉もまだ帰らなかった。

     九

 お時が再び蚊いぶしの火を吹いていると、蚊帳の中から外記が声をかけた。
「気の毒だがいつもの通り、なにか酒と肴を見つくろって来てくれ」
「は
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