い、はい。この辺には碌なものもござりませんから、田町《たまち》までひと走り行ってまいります」
 お時は金を受取ってすぐに出て行った。秋の夜のくせで、雨もない空から稲妻が折りおりに走った。
 ここの家では古い蚊帳がひと張りしかなかったのを、綾衣を預かるようになってから、外記が金を出して品のいい蚊帳を買わせたのである。見るからすがすがしいような新しい蚊帳は萌黄《もえぎ》の波を打たせて、うす穢《ぎたな》いこの部屋に不釣合いなのもかえって寂しかった。その蚊帳越しのあかりに照らされた二人の顔も蒼く見えた。
「おれはいよいよ甲府勝手になりそうだ」
 口ではむぞうさに言っているが、そのひとみの据えかたで綾衣ももうさとった。
「たしかにそう決まりなんしたか」
 落ち着いているつもりでも、彼女の声は少し顫えていた。男はすぐにうなずいた。
「きょう叔父が来て言った。嘘ではあるまい。ひと間住居などと騒いでいるうちに、一足《いっそく》飛びに地獄が来た。親類共も驚くのは無理がない。叔父はおれを手討ちにすると言ったよ」
「ぬしを殺そうとしなんしたか」と、綾衣は呆れたような顔をした。「まあ、馬鹿らしい。それでもよく怪我もありんせんでしたね」
「むやみに切られて堪まるものか。これでも命が惜しい」と、外記はほほえんだ。「いくら叔父でも無法の成敗をしようとすれば、おれもこれを持っている」
 外記は蚊帳の外へ手をのばして枕もとの刀を引き寄せた。遊女屋に大小は禁物で、腰の物はいつも茶屋に預けて来るので、綾衣は一度も外記の刀を見たことはなかった。ここへ来てからも別に気にも止めなかったが、今夜はふと思い出した。
「もし、いつか仲の町の草市で摺れちがった時の刀というのは、やっぱりこれでありんしたかえ」
「むむ、そうだ。お前の袖に引っかかった刀はこれだ。鍛えは国俊《くにとし》、家重代。先祖はこれで武名をあげたと、年寄りどもからたびたび聞かされたものだ」
「その刀は二人のためには結ぶの神とでも言うのでおざんしょう。わたしにもよく見せておくんなんし」
 綾衣は袖の上に刀をのせて、鞘のままでじっと見入っているうちに、不思議な縁ということも考えられた。その晩、草市を見物に出た遊女も大勢《おおぜい》あった。大門《おおもん》をくぐった侍も大勢あった。その大勢と大勢とのなかで、外記と自分とが偶然に行きちがって、偶然に自分の袖が
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