ましくてならない。
 こう言ううちにも綾衣はやるせないように胸を抱えて、しばたたく睫毛《まつげ》には白い露が忍んでいた。深いわけは知らないながらも、お米もなんだか引き入れられるように心さびしくなって、さっきの恨みとはまた違った悲しみに、あたらしい涙がおのずと湧き出るのを押さえることができなかった。
「実はそういう訳なんだから、このお人のことを決して誰にも言うんじゃないぜ」と、十吉は固く念を押した。お米は決して他言はしないといった。両親にさえも言わないと誓った。
 世間をおそれる身が長く端居《はしい》はできないので、二人の仲直りを見とどけて綾衣は早々に奥へはいった。昼でも暗い納戸には湿《しめ》って黴《かび》臭い空気がみなぎっていた。人を慕ってすぐに襲って来る藪蚊の唸り声におびやかされて、綾衣はあわてて渋団扇《しぶうちわ》を手にとった。
 間違って人に妬まれた我が身が、今はかえって人を妬ましいように思わなければならなかった。綾衣は実にお米と十吉とを妬ましいほどに羨ましく思った。彼女は時どきに団扇の手を休めて、二人のささやきに耳を引き立てた。
 怨む、怒る、泣く、笑う、それが覗きからくりのように瞬くうちに変ってゆく若い同士の埒《らち》なさを、綾衣はただ馬鹿らしいとばかりは思えなかった。外記と馴染みそめたその当座は、自分たちの間にもそうしたおさない他愛ない痴話《ちわ》や口説《くぜつ》の繰り返されたことを思い出して、三年前の自分がそぞろに懐かしくなった。
「盂蘭盆が過ぎたら……」と、十吉の声がきこえた。
「家《うち》のおっかさんもそう言っていた」と、お米の声も低くきこえた。
 盂蘭盆が過ぎたらいよいよ祝言をするというのではあるまいかと、綾衣は想像した。自分はその盂蘭盆まで生きていられる命だろうか。綾衣の肉は微かにおののいた。剣難の相があると言われたことも今更のように思い出された。
 遠くで雷《らい》の音がひびいた。かみなり嫌いの綾衣はいよいよ神経が鋭くなった。
 自分にも恋はある。あの子供らしい人たちがもっているのよりも、更に深い強い実《み》の入ったものをもっている。なんでよその恋が羨ましかろう。妬ましかろう。しかし自分たちは蜘蛛《くも》の巣にかかった蝶や蜻蛉《とんぼ》のように、苦しい、切ない、むごい、やがては命をとられそうな怖ろしいきずなに手足をくくられて悶《もが》いている
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