て、もうひと足のところを汀《みぎわ》から危うく曳き戻した。お米は狂人のように身をもがいたが、男の力にはかなわないで再び縁さきまで泣きながらよろけて帰った。
 奥にひそんでいる問題の人はこの争いをさっきから窺っていて、出ようか出まいかと躊躇していたが、もう堪まらなくなって襖《ふすま》をあけた。彼女はしずかに縁さきに出て、そこに泣き倒れているお米の肩をやさしくなでた。
「もし、お米さんとかいう子、お前も短気はやめなんし。わたしはこう見えてもほかに立派な男がおざんす。ここの家《うち》のお嫁かなんぞのように疑われては、十さんも迷惑、わたしも馬鹿らしゅうおす。もういい加減に泣くのを止めて、十さんと仲好くおしなんし」
 まだ腑に落ちないような恨み顔をしているお米にむかって、綾衣はしみじみと言って聞かせた。相手の名はあらわには明かされないが、自分は廓にいる時から或る武家と言い交して、それがために駈落ちの日かげ者となってこの家に隠まわれている。十さんがそれを秘《かく》しているのは、つまりわたし達のためを思うからのことで、お前の疑うのは無理もないが、疑われた十さんは実に気の毒である。決して思い違いをしてはならないと言った。
 お米も漸《ようや》く疑いがほぐれて来た。今までは垣覗きの遠目でよく判らなかったが、こうして顔と顔とを突き合わせて親しくその人をみあげると、その鈴を張ったような大きい眼、しっかりと結んでいる口もとに、犯し難い一種の威をもっているようにも思われて、お米はなんだかまぶしく感じられた。しかもその眼には偽らない誠の光りがひそんで、その口には優しいなさけがこもっていることも、彼女の心を惹き付けた。この人が自分を欺《だま》そうとはお米もさすがに思われなかった。彼女はおとなしく聴いていた。
 綾衣は又こんなことを言った。
 お前が十さんと約束のあることは、わたしもここの阿母《おっか》さんから聴いて知っている。こうして列べて見たところが丁度似合いの夫婦である。お前さん達は羨ましい。たとい一生を藁ぶき屋根の下に送っても、思い合った同士が仲よく添い遂げれば、世に生きている甲斐がある。いくら花魁の、太夫のと、うわべばかりに綺羅《きら》を飾っても、わたし達の身の果てはどう成り行くやら。仕合せに生まれた人たちと不仕合せに生まれた者とは、こうも人間の運が違うものか。返すがえすもお前さん達が羨
前へ 次へ
全50ページ中33ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング