顔をそむけていた。田圃づたいに長い堤をあがってゆくお時のうしろ影を腹立たしいような心持ちでしばらく見送っていたお米は、母の留守を幸いに女と差し向かいになっている十吉のことを考えると、総身の血が沸き上がって頭がぐらぐら[#「ぐらぐら」に傍点]して来た。彼女は前後の分別もなしに家を駈け出して、垣根越しに内の様子を覗きに来たのであった。
「そりゃあ飛んでもない間違いだ」
 十吉は呆れたような、困ったような眼をみはって、しばらく黙っていた。お米は縁に俯伏したままで肩をゆすって泣いていた。
「ありゃあ少しわけがあって、よそから預かっているお人だ」と、十吉はお米の耳に低くささやいたが、疑いに凝り固まっているお米は容易に肯《き》かなかった。
 あの女はどこの何者で、誰に頼まれて預かってあるということを、十吉は詳しく説明するのを恐れた。殿様を大事に思う正直|一途《いちず》の心から、お時は固く十吉を戒めて、誰にもこの秘密を明かしてはならない、お米にも決して明かしてはならないと言い含めて置いた。母の血を受けて生まれた十吉は、この戒めを破るには余りに正直過ぎていた。ましてこういう場合のあることを夢にも予想していなかった彼は、お米の疑いを解くに適当な手段を考え出すことができなかった。
「わたしが何でほかの女なぞを連れて来るものか、積もって見ても知れたことだ。まあ、黙って見ているがいい。あとで自然に判るから」
 十吉はこんなことを小声で繰り返していた。一方にはお米をなだめながら、また一方にはこんなことを奥の人の耳に入れるのも恥かしいように思ったので、お米の泣き声が高くなるほど、彼は奥を憚《はばか》ってはらはら[#「はらはら」に傍点]していた。
 あの女はどこの誰だとお米は執念ぶかく問い詰めたが、十吉ははっきり答えることができないで、相変らずおどおどしているので、一途《いちず》に突き詰めた若い女の胸はもう張り切って破れそうになった。
「覚えているがいい」
 持っていた手拭を男に叩き付けてお米は衝《つ》と起った。顔いっぱいの涙を丸めた袂で強く拭いたかと思うと、彼女は忽ち跣足《はだし》になって、横手の蓮池を目ざしてつかつか[#「つかつか」に傍点]と駈け出した。池はこの頃の雨に水嵩《みずかさ》をおびただしく増して、蓮の浮き葉は濁った泥の浪に沈んでいた。
 十吉はおどろいた。これも跣足になって駈け出し
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