頬に、鬢《びん》のおくれ毛が微かにふるえているのも美しいようでいじらしかった。
「でも、いつまでもこの通りでいなんしたら、遅かれ速かれ、やっぱり一間住居に決まりんしょうが……」
「一間住居は蹴破っても出る」と、男の眼には反抗の強い光りがひらめいた。
 綾衣はぞっとするほど嬉しかった。彼女はいつもこの強いひとみに魅せられるのであった。
「しかし甲府勝手《こうふがって》と来ると、少しむずかしい」と、男はまた投げ出すように言った。
「甲府勝手とは何でありんすえ」
「遠い甲州へ追いやられるのだ。つまり山流しの格だ」
 もうどうしても手に負えないと見ると、支配頭から甲府勝手というのを申し渡される。表向きは甲府の城に在番という名儀ではあるが、まず一種の島流し同様で、大抵は生きて再び江戸へ帰られる目当てはない。一生を暗い山奥に終らなければならないので、さすがの道楽者も甲府勝手と聞くとふるえあがって、余儀なく兜を脱ぐのが習いであった。
 一間住居から甲府勝手、こうだんだんに運命を畳み込んで来れば、その身の滅亡は決まっている。勿論、出世の見込みなどがあろう筈はない。外記はそれすらも敢《あ》えて恐れなかったが、万一遠い甲州へ追いやられたら、しょせん綾衣に逢うすべはない。二人を結び合わせた堅いきずなも永久に断たれてしまわなければならない。男に取ってはそれが何よりも苦痛であった。
 黙って聴いている女の思いも、やはり同じどん底へ落ちて行った。半年のうちには大難があると言った占い者の予言は、焼金《やきがね》のように女の胸をじりじりとただらして来た。
 綾衣の膝からすべり落ちた三栖紙《みすがみ》は白くくずれて、彼女は懐ろ手の襟に頤《あご》を埋めた。何か言いたい大事なことが喉まで突っかけて来ていても、今はまだ言うべき時節でないと無理に呑み込んで、彼女はきっと口を結んでいた。
 やわらかい雨の音はささやくように低くひびいた。近所の小店《こみせ》で時を打つ柝《き》の音が拍子を取って遠くきこえるのも寂しかった。行燈の暗いのに気がついて、綾衣は袂をくわえながら、片手で燈心をかかげた。その片明かりに映った外記の顔はいよいよ蒼白かった。
「まあ、いい。その時はその時のことだ。取り越し苦労をするだけが馬鹿というものだ」と、外記は捨て鉢になったように言った。
「ほんとうに、どうなるやら知れない先きのことを、前か
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