ら苦労するのは馬鹿らしゅうありんすね」
 運命の力が強く圧しつけて来るのを十分に意識していながら、男も女も堪《こら》えられるだけは堪えて見ようと、冷やかに白い歯を見せていた。しかもその歯を洩れる息は焔《ほのお》であった。

     五

 団十郎の芝居にありそうな仲の町の華麗な桜も、ゆく春と共にあわただしく散ってしまって、待乳《まつち》の森をほととぎすが啼いて通る広重《ひろしげ》の絵のような涼しい夏が来た。五月には廓で菖蒲《しょうぶ》を栽《う》えたという噂が箕輪の若い衆たちの間にも珍らしそうに伝えられたが、十吉は行って見ようとも思わなかった。
 五月のなかごろから暗い日がつづいた。箕輪田圃では蛙《かわず》がやかましく鳴き出した。十吉の家を取り巻いた蓮池には青い葉が一面に浮き出して来て、ここでも蛙が毎日鳴いた。
「蛙がたくさん鳴く年には梅雨《つゆ》がたくさん降る」
 お時が言った通り、ことしの梅雨は雨の量が多かった。
 ここらの藁屋根が腐るほどに毎日降った。陽《ひ》というものがまるで失《な》くなってしまったのではないというしるしに、時どきうすい影を投げることもあるが、それは忽ち暗い雲の袖に隠れてしまった。
「阿母《おっか》さん。よく降るねえ」
 十吉は縁側から空を仰いで、つくづく飽き果てたように言った。五月末の夏の日も小やみのない雨に早く暮れて、古い家の隅《すみ》ずみには藪蚊が人をおどすように唸っていた。
「あんまり雨が降るので、きのうも今日もお米坊が見えないね」
「むむ」と、十吉はなんだかきまりの悪いような返事をしていた。お米と十吉とはゆくゆく夫婦にするつもりで、お時も承知、お米の親たちも承知しているのであった。お米の噂が出ると、年の若い十吉はいつも顔を赤くしていた。
 雨戸を閉めてしまって、母子《おやこ》は炉の前にむかい合った。降りつづいた梅雨の夜はうすら寒かった。雨はざあざあ[#「ざあざあ」に傍点]と降っている。近所の田川が溢れるように、ごぼごぼ[#「ごぼごぼ」に傍点]と流れる音が雨にまじってさわがしく聞えた。
 明けても暮れても母子さし向いのこの一家では、別に新しい夜話の種もなかった。二人は黙って別々に自分の思うことを考えていた。若い十吉はお米のことを思うよりほかはなかった。お時はさすがに思うことが多かった。わが子のこと、嫁のこと、それから殿様のこと、それか
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