、大事の男をおめおめ手放してしまって、今更とらえようもない昔の夢にあこがれて、毎日泣いているのも無理はないとも思われた。いじらしい夕雛の泣き顔を見れば、綾衣も涙がこぼれた。
 しかしあの人と自分とは性根の据え方が違うと、彼女はいつも誇るように考えていた。
 どんなに性根を強く据えていても、さすがは人間の悲しさに、綾衣はだんだん薄れてゆく自分のさびしい影を、じっと見つめているのは苦しかった。この頃はこめかみ[#「こめかみ」に傍点]の痛む日が多かった。胸の痛む日が多かった。取り分けてきょうは雪冷えのせいか、脾腹《ひばら》から胸へかけて差し込みが来るように思われた。
「綾鶴さん、綾鶴さん」
 低い声で呼んだが、次の間で返事がなかった。二度も三度も呼ばれて、綾鶴はようように寝ぼけたような声を出した。
「花魁。なんざいますね」
「お湯を一杯おくんなんし」
「あい、あい」
 藤の比翼絞《ひよくもん》を染めた湯呑みを盆にのせて、綾鶴は腫《は》れぼったい眼をしてはいって来た。いつもの薬を煎じようかと言ったが、綾衣はいらないと言った。明けても暮れても薬ばかり飲んでいては生きている甲斐がないと、彼女はさびしく笑った。
「それでも、こうして起きていなんしては悪うおす。ちっと横におなりなんし」
 綾鶴は次の間の夜具棚から衾《よぎ》や蒲団を重そうに抱え出して来て敷いた。そうして、人形を扱うように綾衣を抱え、蒲団の上にちゃんと坐らせた。綾衣はおとなしくして湯を飲んでいた。
「花魁。いつの間にか積もりんしたね」
 座敷の櫺子窓《れんじまど》をあけて外を眺めていた綾鶴が、中の間《ま》の方へ向いて声をかけた。ちっとの間に雪がたくさん積もったから、ちょいと来て見ろと仰山《ぎょうさん》らしく言うので、綾衣はしずかに起って座敷へ行った。白い踵《かかと》にからむ部屋着の裾にも雪の日の寒さは沁みて、去年の暮れに入れ替えたばかりの新しい畳は、馴れた素足にも冷たかった。
 雪は綿と灰とをまぜたように、大きく細かく入りみだれて横に縦に飛んでいた。田町《たまち》から馬道《うまみち》につづいた家も土蔵ももう一面の白い刷毛《はけ》をなすられて、待乳《まつち》の森はいつもよりもひときわ浮きあがって白かった。傘のかげは一つも見えない浅草田圃の果てに、千束《せんぞく》の大池ばかりが薄墨色にどんよりとよどんで、まわりの竹藪は白い
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