い二人の楽しい恋のいのちであった。
 夕雛の男というのは程を越えた道楽が両親や親類の眼にも余って、去年から勘当同様に大坂の縁者へ預けられてしまった。夕雛は西の空を見て毎日泣いている。それを気の毒とも可哀そうとも思うにつけて、足かけ三年越しもつづいて来た自分たちの恋仲も、やがてこうした破滅に近づくのではあるまいかと、綾衣も薄々おびやかされないでもなかった。
 いくら天下のお旗本でも、その年々の取米《とりまい》は決まっている。まして今の江戸の世界では武家よりも町人の方が富貴《ふっき》であることは、客商売の廓の者はよく知り抜いている。たとい遊びの上にぼろ[#「ぼろ」に傍点]を出さずとも、男の内証のだんだんに詰まって来るらしいのは、綾衣の眼にも見えていた。殊に去年の暮れには小普請入りとなった。男の影がいよいよ痩せて衰えてゆくのは明らかになった。それに連れて男の周囲からいろいろの叱責や意見や迫害が湧いて来ることも綾衣は知っていた。神か人か、何者かの強い手によって二人は無慈悲に引き裂かれねばならぬ情けない運命が、ひと足ずつに忍び寄って来ることも綾衣は覚悟していた。
 そうなったら仕方がないと、悲しく諦めてしまうことの出来るような綾衣ではなかった。彼女は自分が一度つかんだ男の手は、死んでも放すまいという根強い執着をもっていた。
 たとい世間晴れて藤枝家の奥様と呼ばれずとも、妾ならば子細はない。男の家さえ繁昌していれば、江戸のどこかの隅に囲われて、一生をあわれな日蔭者で過そうとも、暗いなかに生きている楽しみはある。綾衣もそのあきらめだけは余儀なくもっていた。しかし、男と永久に手を振り切るというのは、どうしても思い付かないことであった。男の方でも承知する筈がないと綾衣は信じ切っていた。
 その望みも危ういものになって来たではないか。考えると彼女も胸が痛んで来た。夕雛の男はいよいよ上方へ発つという前の晩にそっと逢いに来た。二人は泣きたいだけ泣いて別れた。自分も一緒に貰い泣きをしたものの、今夜別れたらもういつ逢われるか知れない男を、無事に見送って帰してやった夕雛の仕方が歯がゆいように思われてならなかった。女も女なら男も男だと、綾衣はひそかにその男の薄情を憎んだ。そうしてまた、ふたりの弱い心を憫《あわ》れんだ。実際、夕雛は気の弱いおとなしい女であった。その平生《へいぜい》の気質から考えると
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