相手はあわてて押さえようとして、女の袖も一緒に掴んでしまったのであった。
 よろけた綾衣は顔と顔とが触れ合うほどに、侍の胸のあたりへ倒れかかった。相手は侍、しかも粗相《そそう》はこっちにある。それと気がついて綾鶴は平《ひら》にあやまった。綾衣もにっこり[#「にっこり」に傍点]笑って会釈した。侍も黙ってほほえんで行き過ぎた。人に押されて我知らずふた足三足あるき出してから、綾衣がふと見かえると、先きでもこっちを見返っているらしい、黒く動いている人ごみのあいだに、かの侍の白い顔が浮いて見えた。
「玉琴さんのお客ですよ」と、綾鶴がささやいた。綾衣はあんな侍客を見たことはないと思った。だんだん聞いてみると、刀を引っかけた侍ではない、もう一人の連れの侍がやはり大菱屋の客であるということが判った。
 その晩、駿河屋から二人の客が送られて来た。それはさっきの侍で、一人は果たして玉琴の客であった。一人は初会《しょかい》で綾衣を指して来た。
 不思議な御縁《ごえん》でおざんしたと、綾衣は笑って言った。今も昔も初会から苗字をあかす者はない。まして侍はお定まりの赤井御門守《あかいごもんのかみ》か何かで押し通すのが習いであったが、一方の連れが馴染みであるだけに、綾衣の客の素姓《すじょう》も容易に知れた。番町の旗本藤枝外記とすぐに判った。外記は同役に誘われて、今夜初めて吉原の草市を見物に入り込んだのであった。
 連れのひとりは此の時代の江戸の侍にありがちな粋《いき》な男であった。相方《あいかた》の玉琴にも面白がられていた。外記は初めてこの里の土を踏んだ初心《しょしん》の男であった。しかし、これも面白く遊ばしてもらって帰った。
「すっきりとしたお侍でおざんすね」と、番頭新造の綾浪も言った。
 綾衣はただ笑っていた。
 その後も外記は遊びに来た。二回《うら》にはやはり玉琴の客と一緒に来た。三回《なじみ》を過ぎてからは一人でたびたび来るようになった。
 玉琴の客はいつか遠ざかってしまったが、外記だけは相変らずかよって来た。綾衣の方でも呼ばずには置かなかった。しょせん添われぬときまっている人が、綾衣の恋の相手となってしまった。これも神のむごいいたずらであろう。もうこうなると、綾衣も盲目《もうもく》になった。末のことなどを見透している余裕《ゆとり》はなかった。その日送りに面白い逢う瀬を重ねているのが、若
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