なしに窮屈な一日を屋敷に暮らしたが、灯のつくのを待ちかねて、彼は吉原へ駕籠を飛ばした。きょうも流《なが》して午《ひる》過ぎに茶屋へかえって来た。この場合、ふた晩つづけて屋敷を明けては、用人の意見、叔父の叱言《こごと》、それが随分うるさいと思ったので、彼は日の暮れるまでにひとまず帰ろうとしたのであった。
 彼は少しく酔っていたので、茶屋から駕籠にゆられながら快《い》い心持ちにうとうと[#「うとうと」に傍点]と眠って行くと、夢かうつつか、温かい柔かい手が蛇のように彼の頸《くび》にからみ付いた。女のなめらかな髪の毛が彼の頬をなでた。白粉の匂いがむせるように鼻や口をついた。眼の大きい、眉の力《りき》んだ女の顔がありありと眼の前にうき出した。
 と思う途端に、駕籠の先棒《さきぼう》がだしぬけに頓狂な声で、「おい、この駕籠は滅法界《めっぽうかい》に重くなったぜ」と、呶鳴った。
 外記ははっ[#「はっ」に傍点]と正気にかえった。そうして、駕籠が重くなったということを何かの意味があるように深く考えた。
 今までは自分一人が乗っていた。そこへまぼろしのように女が現われて来た。駕籠が急に重くなった。眼に見えない女のたましいが何処までも自分の後を追って来るのではあるまいか。
「なんの、ばかばかしい。なんとか名を付けて重《おも》た増《ま》しでも取ろうとするのは駕籠屋の癖だ」と、外記は直ぐに思い直して笑った。
 しかしそれが動機となって、彼は再び吉原が恋しくなった。駕籠屋の言うのは嘘と知りつつも、彼は無理にそれを本当にして、もしや女の身に変った事でも起った暗示《しらせ》ではあるまいかなどと自分勝手の理屈をこしらえて見たりした。そうして、自分でわざと不安の種を作って、このままには捨てて置かれないように苛々《いらいら》して見たりした。駕籠がだんだんに吉原から遠くなって行くのが、何だか心さびしいように思われてならなかった。
「ここはどこだ」と、彼は駕籠の中から声をかけた。
「山下《やました》でございます」
 まだ上野か、と外記は案外に捗《はか》の行かないのを不思議に思った。と同時に、これから屋敷へ帰るよりも、吉原へ引っ返した方が早いというような、意味のわからない理屈が彼の胸にふとうかんだ。
「これ、駕籠を戻せ」
「へえ、どちらへ……」
「よし原へ……」と、彼は思い切って言った。
 駕籠はふたたび大
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