門《おおもん》をくぐって茶屋の女房を面食らわした。茶屋では直ぐに大菱屋へ綾衣を仕舞《しま》いにやった。そんな訳であるから、さっき帰ってからまだ二※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《ふたとき》とは過ぎていないのに、女の迎いを急《いそ》がせる。むこうは稼業だから口へ出してこそ言わないが、殿様もあんまりきついのぼせ方だと茶屋の女房たちに蔭で笑われるのも、さすがに恥かしいように思われた。
表は次第に賑やかになって、灯の影の明るい仲の町には人の跫音《あしおと》が忙がしくきこえた。誰を呼ぶのか、女の甲走《かんばし》った声もおちこちにひびいた。いなせな地廻りのそそり節《ぶし》もきこえた。軽い鼓《つづみ》の調べや重い鉄棒《かなぼう》の音や、それもこれも一つになって、人をそそり立てる廓の夜の気分をだんだんに作って来た。外記も落ち着いてはいられないような浮かれ心になった。
急ぐには及ばないと思いながらも、彼の腰は次第に浮いて来た。手酌で一杯飲んで見たが、まだ落ち着いてはいられないので、ふらふらと起《た》って障子をあけると、まだ宵ながら仲の町には黒い人影がつながって動いていた。松が取れてもやっぱり正月だと、外記はいよいよ春めいた心持ちになった。酒の酔いが一度に発したように、総身《そうみ》がむずがゆくほてって来た。
その混雑のなかを押し分けて、箱提灯《はこぢょうちん》がゆらりゆらりと往ったり来たりしているのが外記の眼についた。彼は提灯の紋どころを一々《いちいち》にすかして視た。足かけ三年この廓に入りびたっていても、いわゆる通人《つうじん》にはとても成り得そうもない外記は、そこらに迷っている提灯の紋をうかがっても、鶴の丸は何屋の誰だか、かたばみはどこの何という女だか、一向に見分けが付かなかった。しかし綾衣の紋が下がり藤であるということだけは、確かに知っていた。
自分が上野まで往復している間に、ほかの客が来たのではあるまいかとも考えた。自分は今夜来ない筈になっていたのであるから、先客に座敷を占められても苦情はいえない。しかし馴染みの客が茶屋に来ているのに、今まで迎いに来ないという法はない。
「今夜の客というのは侍か町人か、どんな奴だろう」と、外記は軽い妬《ねた》みをおぼえた。
さっきから女房が再び顔を見せないのは、何か向うにごたごた[#「ごたごた」に傍点]が起ったのではあるま
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