中に溺れているのではあるまいかと、お時は寒い夜風にひたいを吹かれながら、いつまでも廓の紅い空をじっと眺めていた。
二
お時が案じていた通り、外記は丁度そのころ吉原の駿河屋《するがや》という引手茶屋《ひきてぢゃや》に酔っていた。
二階座敷の八畳の間《ま》は襖も窓も締め切って、大きい火鉢には炭火が青い舌を吐いていた。外の寒さを堰《せ》き止められて、なまあたたかく淀んだ空気のなかに、二つの燭台の紅い灯はさながら動かないもののように真っ直ぐにどんよりと燃え上がって、懐ろ手の外記がうしろにしている床《とこ》の間《ま》の山水の一軸をおぼろに照らしていた。青銅《からかね》のうす黒い花瓶の中から花心《しべ》もあらわに白く浮き出している梅の花に、廓の春の夜らしいやわらかい匂いが淡《あわ》くただよっていた。外記の前には盃台が置かれて、吸物椀や硯蓋《すずりぶた》が型の如くに列《なら》べてあった。
相手になっているのは眉の痕のまだ青い女房で、口は軽くても行儀のいいのが、こうした稼業の女の誇りであった。茶色の紬《つむぎ》の薄い着物に黒い帯をしゃんと結んで、おとなしやかに控えていた。
「花魁《おいらん》ももうお見えでござりましょう。まずちっとお重ねなされまし」と、彼女が銚子をとろうとすると、外記は笑いながら頭《かぶり》をふった。
「知っての通り、おれは余り酒は飲まないのだから、まあ堪忍してくれ。このうえ酔ったらもう動けないかも知れない」
男には惜しいような外記の白い頬には、うすい紅《べに》が流れていた。
「よろしゅうござります。殿様が動けなくおなり遊ばしたら、新造《しんぞう》衆が抱いて行って進ぜましょう。たまにはそれも面白うござります」と、女房は口に手を当てて同じように笑っていた。
「いや、まだよいよい[#「よいよい」に傍点]にはなりたくない」と、外記も同じように笑っていた。
「それにしても花魁の遅いこと、もう一度お迎いにやりましょう」
女房は会釈《えしゃく》して階子《はしご》を軽く降りて行った。
「ああ、そんなに急《せ》き立てるには及ばない」と、外記がうしろから声をかけた時には、女房の姿はもう見えなかった。
実際そんなに急ぐには及ばない。急ぐと思われては茶屋の女房の手前、さすがにきまりが悪いようにも外記は思った。きのうは具足《ぐそく》開きの祝儀というので、よんどころ
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