麻畑の一夜
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)元船《もとふね》から
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)黒|猩々《しょうじょう》の
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一
A君は語る。
友人の高谷君は南洋視察から新しく帰って来た。日本でこのごろ流行する麻つなぎの内職に用いる麻は内地産でない。九分通りはマニラ麻である。フィリピン群島に産する麻のたぐいはすべてマニラ麻の名をもって世界に輸出されている。高谷君が南洋へ渡航したのも、この製麻事業に関係した用向きで、もっぱらこの方面の視察にふた月あまりを費して来たのであった。
フィリピン群島にはたくさんの小さい島があるので、高谷君も一々にその名を記憶していないが、なんでもソルゴという島に近い土地であるといった。高谷君が元船《もとふね》からボートをおろして、その島の口へ漕ぎつけたのはもう九月の末の午後であったが、秋をしらない南洋の真昼の日は、眼がくらむように暑かった。藍《あい》のような海の水も島へ近づくにしたがって、まるでコーヒーのような色に濁っているのは、島のなかに大きな河があって、その下流が海にむかって赤黒い泥水を絶え間なしに噴き出しているからであった。高谷君はひとりで大胆にその河口へ乗り込んで、青い草の繁った堤《どて》から上陸しようとしたが、河の勢いがなかなか烈しいので、ややもすれば海の方へ押戻されて、彼もほとほと困っていると、堤のうえに一人の男があらわれた。男は白いシャツを着て、茸《きのこ》のような形をした大きい麦わら帽子をかぶっていた。
「さあ、投げますよ。」と、男は明快な日本語で叫んだ。そうして、こっちの舟を目がけて長い麻縄を投げてくれた。無論、一度ではうまく届かなかったが、二度も三度も根よく投げるうちに、縄のはしは首尾よく舟のなかへ落ちた。高谷君はさらにそれを船端《ふなばた》へくくり付けて、一種の曳き舟のようにして堤のきわまで曳きよせてもらった。
「気をつけてください。流されますから。」と、男はまた注意した。
高谷君はその縄の端を立木の根へしっかりと縛りつけて、初めて堤の上に登った。
「よくお出でになりましたね。」と、男は笑いながら挨拶した。かれは三十ぐらいの、体格の逞ましい、元気のよさそうな男であった。
高谷君は自分の身分と目的とを説明すると、男は愉快らしくまた笑った。
「さようですか。まあ、こちらへいらっしゃい。この島にはそうたくさんもありませんが、それでも相当に麻畑があります。わたしがすぐに御案内します。わたしは丸山俊吉という者です。」
かれは日本の人で、三年ほど前からこっちへ来て、日本人と原住民とを合せて七十人ばかりの労働者の監督をしていると言った。高谷君は彼のあとについて堤から十町ほども行くと、広い麻畑が眼の前にひろがって、芭蕉《ばしょう》に似た大きい葉が西南の風になびいていた。丸山はその一年の産額や品質などをいちいち詳しく説明してくれた。
「まあ、我れわれの小屋へいらっしゃい。お茶でもいれますから。」
それからまた二町ほども行くと、そこに大きい家があった。屋根はトタンでふいて、三方は日本風の板羽目になっていたが、そのひどく破損しているのが高谷君の眼についた。案内されて内へはいると、中は一面の土間になっていて、部屋の隅には寝台と毛布がみえた。棚の上には酒の壜《びん》や缶詰のたぐいも乗せてあった。ふたりはまん中に据えてある丸いテーブルを囲んで、粗末な椅子に腰をおろした。
「おい、勇造、お客様だ。早く来い。」
丸山に呼ばれて、ひとりの青年が外からはいって来た。年のころは十八、九で、これもこういう南洋生活をしているにふさわしい、見るから頑丈らしい男であった。かれは茶っぽい縮《ちぢみ》のシャツを着て、麻のズボンをはいていた。
天草《あまくさ》の生れで、弥坂勇造という男であると、丸山はこれを高谷君に紹介した。勇造は丸山のボーイ代りに働いているらしく、かいがいしく立廻って、チョコレートやビスケットなどを運んで来た。マニラ煙草も持って来た。
「なにしろ、よくお出でくだすった。」と、丸山はいかにも打解けたように言った。「内地の人も随分こっちへ来るようですけれども、大抵はおもな島々をひと廻りするだけで、こんなところまでは滅多《めった》に廻って来る人はありません。毎日おなじ人の顔ばかり見ているんですから、まったく内地の人はお懐かしいんですよ。」
実際、かれらは高谷君を歓迎しているらしく、大切にしまってあったらしい葡萄酒の口をぬいて高谷君にすすめた。缶詰の肉や魚なども皿に盛って出した。ここらの島に住んでいる人としては、出来るかぎりの歓待を尽くされて、高谷君も気の毒になって来た。はじめの予定ではほんの一時間ぐらい見廻ってすぐに帰るつもりであったが、あまりに人なつかしく持成《もてな》されるので、高谷君も早くは起《た》てなくなって、いろいろの話に二時間あまりを費してしまった。そのうちに丸山はこんなことを言い出した。
「この頃はここらに可怪《おかし》なことが始まりましてね。労働者がみんな逃げ腰になって困るんですよ。」
「おかしなこと……。どんなことが始まったんです。」
「人間がなくなるんです。先月からもう五人ばかり行くえ不明になりました。」と、丸山は顔をしかめながら話した。
「どうしたんでしょう。」
「判りません。なんでも四、五年前にもそんなことが続いたので、今までここに在住していたオランダ人はみんな立退《たちの》いてしまって、しばらく無人島のようになっていた所へ、我れわれが三年まえから移って来て、今まで無事に事業をつづけていたんです。勿論、来た当座は十分に警戒していましたが、別に変ったこともないので、みんなも安心していました。原住民たちも一時は隣りの島へ立退いていたんですが、これもだんだんに戻って来て、今ではこうして我れわれと一緒に働いています。ところが、先月の末、二十五日の晩でした。この小屋の近所に住んでいる原住民の女が突然に行くえ不明になったんです。どこへ行ったのか判りません。結局は河縁《かわべり》へ水を汲みに行って、滑り落ちて海の方へ押流されて、鱶《ふか》にでも食われたんだろうという事になってしまいました。するとそれから三日ばかり経って、またひとりの原住民が見えなくなったんです。こうなると、騒ぎがいよいよ大きくなって、これはどうも唯事ではない。むかしの禍《わざわ》いがまた繰返されるのではないかという恐怖に襲われて、気の弱い、迷信の強い原住民たちはそろそろ逃げ支度に取りかかるのを、わたくしが無理におさえて、まあ五、六日は無事に済んだのですが、今月にはいって四日ほど経つと、またひとりの原住民が見えなくなる。つづいて二日目にまた一人、都合四人も消えてなくなったんですから、わたしも実に驚きました。まして原住民たちはもう生きている空もないようにふるえあがって、仕事もろくろく手につかないという始末で、わたしも弱り切っていますと、いい塩梅《あんばい》に小《こ》半月ばかりは何事もないので、少し安心する間もなく、六日前にまた一人、今度は日本人が行くえ不明になったんです。」
「日本人が……。やっぱり夜のうちに見えなくなったんですか。」と、高谷君は眉《まゆ》をよせながら訊《き》いた。
「そうです。いつでも夜なかから夜明けまでのうちに見えなくなるんです。今までは原住民に限られていたんですが、今度は日本人の方へもお鉢が廻って来たので、みんなはいよいよ騒ぎ出して、どうしても此処《ここ》にはいられないというんです。しかし折角これまで経営した仕事を今さら中途で放棄するのも残念ですから、私もいろいろに理解を加えて、まあ当分は踏みとどまっていることにしたんですが、怖くってここには寝られないというので、急に隣りの小さい島へ小屋掛けをして、日が暮れるとみなそこへ行って寝ることにして、夜があけるとこっちへ出て来るんです。実に不便で困るんですが、さし当りはそうするよりほかにないんです。お察しください。」
丸山もよほど困っているらしく、その男らしい太い眉をくもらせて話した。高谷君も息をのみ込んでこの不思議な話を聞いていた。
「で、その行くえ不明になった人間というのは、その後になんの手がかりもないんですか。」
「ありません。」と、丸山はすぐに頭《かぶり》をふった。「無論に手分けをしていろいろに穿索《せんさく》したんですけれど、影も形もみえません。なにか猛獣でも襲って来るのか、あるいは山奥から我れわれの知らない野蛮人でも忍んで来るのかとも思ったんですが、死骸も残っていない。骨も残っていない。血のあとも残っていないというのですから、一体どうしたのかちっとも見当が付きません。丁度あなたがお出でになったのを幸いに、あなたの御意見をうかがいたいと思うんですが……。どうでしょう、世間にこんなことがあるでしょうか。」
「さあ。」と、高谷君も首をかしげた。「行くえ不明になった人間はひとりで寝ていたんですか。それとも誰かそのそばに寝ていたんですか。」
「いや、それがまた不思議なんです。ひとりで寝ていたのならば、まだしもの事ですけれども、日本人は大抵七、八人ずつ一軒の小屋に枕をならべて寝ているんです。まして原住民は十人も二十人も土間にアンペラを敷いて、一緒にかたまって転寝《ごろね》をしているんですから、かりに猛獣が来ても、野蛮人が来ても、ほかの者に覚《さと》られないようにそっと一人をさらって行くということは、よほど困難の仕事で、誰か気のつく者がある筈《はず》です。ねえ、そうじゃありませんか。しかし人間が理屈なしに消えてなくなる訳のものでありませんから、私はまずこれを猿の仕業《しわざ》と鑑定しました。」
「ごもっともです。」
「あなたも御同感ですか。」
「私もそれよりほかに考えはありません。さっきからお話を聞いているうちに、私はドイルの小説を思い出しました。」
「はあ、それはどんなことです。」と、丸山はテーブルの上に肱《ひじ》を押出した。
隅の方の椅子によりかかっている勇造も、眼をかがやかして聞き澄ましていた。
二
「無論に作り話でしょうが、ドイルの小説にはこういうことが書いてあるんです。大西洋のある島の耕作地でやはり人間が紛失する。骨も残らない、血のあともない。よく詮議《せんぎ》してみると、結局それは大きい黒|猩々《しょうじょう》の仕業であったというのです。」と、高谷君は説明した。「今度の事件も余ほどよく似ているようですから、あるいはドイルの小説が事実となって、我れわれの見たこともないような奇怪な猿のたぐいが、夜なかにこの小屋へおそって来て、そっと人間を攫《さら》って行くんじゃありませんかしら。」
「なるほど。」と、丸山もうなずいた。「そこらが好い御鑑定です。ただ少し腑に落ちないのは、もしそんな怪物が来て人間を引っ担いで行くとしたら、なにか声でも立てそうなものだと思うんですが……。すこしでも声を立てれば、そばに寝ている者のうちで誰か眼をさます者もある筈ですが……。」
「ドイルの小説によると、その猿は恐ろしい力で、まず寝ている人間の胸の骨をぐっと押すと、骨は砕けてひと息に死んでしまう。それを易々《やすやす》と担いで行くんだということです。たといひと息に死に切らないものでも、その恐ろしい力で胸を押されて、もう半死半生になった上に、かつて見たこともないような怪物が自分の上にのし掛かっているんですから、大抵のものは異常の恐怖にとらわれて、もう声を出す元気もないだろうと思われます。」と、高谷君は重ねて説明した。
「そうでしょう。しかし……。」と、丸山はまだ疑うように勇造の方を見返った。「我れわれもそう思ったもんですから、毎晩代るがわるに小屋の周囲を見廻って、威嚇《いかく》にピストルを撃ったこともあります。猛獣は火を恐れるというので、所々に焚火をしたこともあります。それでもやっぱり無効でした。現に十二ヵ所も篝火《かがりび》を焚いた晩に、日本人は攫って行かれたんです。」
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