こうなると、高谷君の議論もよほど影の薄いものになって来た。麻畑へ忍んでくる怪物は、野蛮人でも猿でもないらしかった。その次の問題は蟒蛇《うわばみ》である。うわばみが這《は》い込んで来て、ひと息に呑んでしまうのではないかとも考えたが、蛇も火を恐れる筈である。殊に夜なかに這い出して来るかどうかも疑問であった。鰐《わに》も陸《おか》へあがることがある。あるいは鰐ではないかという説も出たが、ここらの原住民は鰐に就いては非常に神経過敏であるから、その匂いだけでもすぐにそれと覚ることが出来る。原住民は決して鰐ではないと主張している。では大|蜥蜴《とかげ》かという説も出たが、とかげが人を喰おうとは思われない。たとい喰ったとしても、骨も残さずに呑み込んでしまう筈はない。結局それは野蛮人の仕業であろうということになったが、丸山はまだそれを信じないらしかった。
「もしここらの森や山の蔭に、我れわれの知らない野蛮人が棲んでいるとしても、原住民もかつてそんな人間らしいものを認めたことがないというんです。とにかく私も余り残念ですから、ほかの者だけを隣りの島へ泊りにやって、私とこの勇造のふたりだけは毎晩強情にこの小屋に残っているんですが、この二、三日はなんにも怪しい形跡も見えません。敵もこっちの油断を狙って来るらしいんですから、一度いたずらをすると当分はやって来ないようです。そこで、こっちが少し安心すると、その油断を見て不意に襲って来る。いつもその手でやられるのですから、今夜あたりはもう油断ができませんよ。」
高谷君も一種の好奇心にそそられて、自分も今夜はこの小屋に泊って、その怪物の正体を見届けたいと思った。その話をすると、丸山も非常に喜んだ。
「どうかそうしてください。あなたも一緒にいて下されば、我れわれも大いに気丈夫です。あなたの御助力で、どうかこの怪物の正体を確かめたいものです。どうでお構い申すことは出来ませんが、あなたの寝道具《ねどうぐ》ぐらいはありますから。」
「どうで徹夜の考えですから、寝道具などはいりません。夜がふけると冷えるでしょうから、毛布が一枚あれば結構です。しかし私がいつまでも帰らないと、船の者が心配するでしょうから、誰か私の手紙をとどけてくれる者はありますまいか。」
「ええ、雑作《ぞうさ》もありません。」と、丸山は勇造に言付けて、ひとりの原住民を呼ばせた。
手帳の紙片をひき裂いて、高谷君は万年筆でその用向きを書いた。原住民はそれを受取って、すぐに小舟に乗って使いに行くといった。今夜ここに泊ると決定した以上、高谷君はその附近の地理をよく見さだめて置く必要があるので、もう一度そこらを案内してくれまいかというと、丸山はこころよく承知して一緒に出た。
空はまだ明るかった。貝殻の裏を覗《のぞ》いたような白い大空が、この小さい島の上を弓形《ゆみなり》に掩《おお》って、その処々に黄や紅の斑《ふ》を打ったような小さい雲のかたまりが漂っていた。高谷君は今更のように、その美しい空の色どりを飽かずにながめた。麻畑のなかには大勢の日本人が原住民と入りまじって、麻の葉を忙がしそうに刈っているのが見えた。かれらは大きい帽子をかぶっているので、その顔はよく見えなかったが、おそらく夜の悪夢におそわれたような心持で、昼も仕事をつづけているのであろう。高谷君と丸山とのうしろには、かの勇造もついて来た。
「もう一つ判らないことがあるんですよ。」と、丸山は麻畑をぬけた時に言った。
三人の眼の前には大きい河が流れていた。その濁った水が海へそそぐであろうと、高谷君は想像した。低い堤に立って見おろすと、流れはずいぶん急で、堤の赭土《あかつち》を食いかきながら、白く濁った泡をふいて轟々《ごうごう》と落ちて行った。
丸山はステッキでその水を指さした。
「ごらんください。この河が境になって、河むこうはあの通りの藪《やぶ》になっているんです。怪物がもしあの藪から出て来るとすれば、どうしてもこの河を渡らなければならない訳ですが、ここを横切るということは容易じゃあるまいと思われるんです。人間は無論ですが、猿にしても蛇にしても、あるいは得体《えたい》の知れない猛獣にしても、この河を泳いでわたるのは大変でしょう。といって、河のこっちはもうみんな開けているので、なんにも棲んでいる筈はありません。どう考えても怪物はその河むこうに棲んでいるか、あるいは海の方から襲って来るか、この二つよりほかにありませんが、もし海から襲って来るとすれば、隣りの島へも来そうなものです。しかし原住民の話によると、隣りの島にはかつてそんな不思議はないということです。あなたのお考えで、この大きい河を渡って来るような動物がありましょうか。」
「さあ、なにしろ急流ですからね。」と、高谷君は怖ろしい秘密を包んでいるような、濁った水の流れを見つめていた。
三人はまた黙って河上の方へ遡《のぼ》って行った。空はまだ美しく輝いていたが、堤のあちらはもうそろそろ薄暗くなって来た。水の音もだんだんに静かになって来た。丸山は水を指さして、また説明した。
「ここから上流の方は水勢がよほど緩《ゆる》いんです。河底の勾配《こうばい》にも因りましょうが、もう一つには天然の堰《せき》が出来ているからです。」
ここらへ来ると、河底から大きい岩が突出していた。何百年来河上から流れてくる大木の幹や枝がその岩にせかれて重なり合って、自然の堤を築いているので、そこには大きい湖水《みずうみ》のようなものを作って、岸の方には名も知れない灌木《かんぼく》や芦《あし》のたぐいが生い茂っていた。
「この通り、ここらは流れが緩いもんですから、みんなここへ来て水を汲んだり、洗濯物をしたりするのです。遠い昔から自然にこうなっているんでしょうが、まことに都合よく出来ていますよ。」と、丸山は笑った。「第一、下流の方は水が濁っていて、とても飲料にはなりませんからね。」
勇造は如才なくバケツを用意して来ていた。かれは灌木をくぐり水ぎわへ降りて、比較的に清い水を一杯くんで来た。水の上はいよいよ薄暗くなって、一種の霧のような冷たい空気が芦の茂みから湧き出して来た。
「今夜も降るかも知れませんね。」と、勇造はバケツをさげながら空を仰いだ。三人の頭の上には、紫がかった薄黒い雲の影がいつの間にか浮かんでいた。
「むむ、今夜も驟雨《シャワー》かな。」と、丸山も空を見た。「しかし大したことはありませんよ。大抵一時間か二時間で晴れますよ。」と、かれは高谷君に言った。
それにしても驟雨が近づいたと聞いては、ここらにうろうろして居るわけにもいかないので、高谷君はもう小屋へ帰ろうと言った。
三人はもと来た堤をつたって麻畑へ出て、小屋の前へもどってくると、大勢の労働者は仕事をしまって、そこに整列していた。
「今夜も隣りへ行くのか。」と、丸山は笑いながら言った。
大勢は挨拶して河下の方へ降りて行った。さっきも話した通り、かれらは小舟でとなりの島へ泊りに行くのであると、丸山は高谷君にまた説明した。そうして、勇造に命じて夕飯の支度にかからせた。
日が暮れると果たして激しい驟雨がおそって来た。その雨のひびきを聞きながら高谷君は夕飯を食った。
三
ここらの驟雨は内地人が想像するようなものではなかった。まるで大きい瀑布《たき》をならべたように一面にどうどうと落ちて来て、この小屋も押流されるかと危ぶまれた。雨の音がはげしいので、とても談話などは出来なかった。高谷君と丸山とはうす暗い部屋のなかに向い合って、だまって煙草をすっていた。テーブルの上には蝋燭《ろうそく》の火がぼんやりと照らしていたが、それも隙間《すきま》から吹き込んでくる飛沫《しぶき》に打たれて、幾たびか消えるので、丸山もしまいには面倒になったらしく、消えたままに捨てて置いたので、小屋のなかは真の闇になってしまった。ただ時どきに二人がするマッチの光りで、主人と客とが顔を見合せるだけであった。
となりの部屋では勇造が夕飯のあと片付けをしているらしく、板羽目《いたばめ》の隙間から蝋燭の火がちらちら揺らめいていたが、それもしまいには消えてしまったらしい。雨は小やみなしに降っていた。
「随分ひどい。今夜はいつもより余ほど長いようだ。」と、暗いなかで丸山は言った。
高谷君はマッチをすって懐中時計を照らしてみると、今夜はもう九時を過ぎていた。この暗い風雨の夜、しかも恐ろしい怪物があらわれるとかいうこの小屋に、丸山と勇造と自分とたった三人が居残っただけで、小屋の内は愚か、この島じゅうに誰も人間らしいものは一人もいないのかと思うと、高谷君はいささか心寂しくなって来た。そのおびえた魂をいよいむ脅《おびや》かすように雷が激しく鳴り出した。
「雷が鳴れば、もうやがて止みます。」と、丸山は言った。
「この雨では怪物も出られますまい。」
「そうです。ことに雷がこう激しく鳴っては、大抵の怪物も恐れて出ないかも知れません。」
雷はますます轟《とどろ》いて、真っ蒼な稲妻の光りが小屋のなかまで閃《ひらめ》いて来た。その光りに照らされた丸山の顔はさながら怪物のようにも見られて、高谷君は薄気味悪くなった。ふたりはまた黙ってしまった。隣りの部屋も鎮まっていた。雨はそれから二時間ほども降りつづいて、しまいには小屋のなかまで流れ込んで来たらしい。高谷君の靴の先は濡れて冷たくなって来た。雷は地ひびきがするほどに鳴った。
「あ。」と、丸山は突然に叫んだ。そうして、大きい声でつづけて呼んだ。「おい、勇造、勇造……弥坂……弥坂……。どこへ行く。」
雷雨が激しいので、高谷君にはとても判らなかったが、風雨に馴《な》れている丸山は勇造がどこかへ出て行く足音を聞きつけたと見える。かれは頻《しき》りに勇造の名を呼んだが、隣りではなんの返事もなかった。
「この降るのに、どこかへ出たんですか。」と、高谷君は不安らしく訊いた。
「どうもそうらしい。」と、丸山は神経が亢奮《こうふん》したように言った。
かれは突然に起ち上がってマッチの火をすりはじめた。高谷君も手伝って、ようようのことで蝋燭に火をともした。
土間はもう三寸以上も雨水に浸されていた。ふたりはその水を渡りながら、蝋燭の火を消さないように保護してあるき出した。となりの部屋とのあいだには四尺ばかりの入口があって、簾《すだれ》代りのアンペラが一枚垂れていた。そのアンペラをかかげて隣りの部屋を覗いてみると、果たしてそこには勇造の姿がみえなかった。
「あ、やられたかな。」と、丸山は跳《おど》り上がって叫んだ。その途端に蝋燭の火は消えてしまった。
言い知れない恐怖に襲われながら、高谷君はあわててマッチをすった。もう蝋燭をともすのももどかしいので、二人はあらん限りのマッチをすって、そこらじゅうを照らしてみたが、勇造の姿はどうしても見付からなかった。
「まだ遠くは行かない筈だ。」
丸山は衣兜《かくし》からピストルを取出して表へ駈け出した。高谷君も用意のピストルをとって、つづいて駈け出した。しかしどっちへ行くという方角も立たないので、ふたりは雷雨のなかをうろうろしていると、蒼い稲妻がまた光って、その光りに照らされた麻畑のあいだに勇造のうしろ姿が見えた。ふたりは瀑布《たき》のような雨を衝いて麻畑のなかへまっしぐらに追って行った。稲妻が消えると、あとはもとの暗やみになってしまったので、二人は再び方角に迷ったが、勇造は堤の方へ行ったらしく思われたので、ふたりは頻りにその名を呼びつづけながら、麻畑を駈けぬけて河の岸へ出ると、雷はまた鳴った。稲妻もつづいて走った。その光りの下に勇造の姿がまたあらわれた。かれは堤から河の方へ降りて行くのである。
「弥坂君……勇造君……。」
「勇造……弥坂……。」
喉《のど》が裂けるほどに呼びながら、ふたりは堤から駈け降りようとすると、ぬれた草に滑って丸山がまず転んだ。高谷君も転んだ。ふたりとも大きい蔓草《つるくさ》に縋《すが》ったので、幸いに河のなかへ滑り落ちるのを免かれたが、そのあいだに勇造
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