の姿は見えなくなってしまった。それでもふたりは強情に彼の名を呼んで、びしょ濡れになってそこらを駈け廻ったが、どうしても彼のすがたは見付からなかった。
雷雨はそれから三十分ほどの後に晴れて、明るい月が水を照らした。ふたりは堤から麻畑を隈《くま》なく探してあるいたが、その結果は、いたずらに疲労を増すばかりであった。ふたりはもう我慢にも歩かれなくなって、這《は》うようにして小屋に帰って、そのまま寝床の上に倒れてしまった。
夜があけてから労働者が戻って来た。かれらはゆうべの話をきいて蒼くなった。大勢が手分けをして捜索に出たが、勇造の行くえはどうしても判らなかった。いつまでもここに残っているわけにもいかないので、高谷君はその日の午後に麻畑の小屋を出た。別れるときに丸山は言った。
「もういけません。労働者たちはどうしても此処《ここ》にいるのはいやだと言いますから、わたしも残念ながらこの島を立去って隣りの島へ引移ります。弥坂は実に可哀そうなことをしました。しかしゆうべの出来事から、私はこういうことを初めて発見しました。怪物は猿でもない、蟒蛇《うわばみ》でもない、野蛮人でもない。たしかに人間の眼には見えないものです。ピストルでも罠《わな》でも捕《と》ることの出来ないものです。眼に見えないその怪物に誘い出されて、みんなあの河へ吸い込まれてしまうのです。」
「私もそんなことだろうと思います。ほかの者がそう言うなら、あなたももう諦めてここをお立退きなすった方が安全でしょう。」と、高谷君も彼に注意した。
「ありがとうございます。そんなら御機嫌よろしゅう。」
「あなたも御機嫌よろしゅう。」
大勢は河の入口まで送って来た。高谷君はもとのボートに乗って元船へ帰った。
この話のあとへ、高谷君は付け加えてこう言った。
「船へ帰ってからその話をすると、船員も他の乗客も、みんな不思議がっているばかりで、何がなんだか判らない。船に乗組んでいる医師の意見では、この怪物はむろん動物でもない、人間でもない、一種の病気――まあ、熱病のたぐい――だろうというんだ。さっきも話した通り、河上には流れのゆるい、湖水《みずうみ》のようなところがある。そこには灌木や芦のたぐいが繁っている。島にいるものは始終そこへ水をくみに行く。そこに一種のマラリヤ熱のようなものが潜んでいて、蚊から伝染するか、あるいは自然に感染するか、どの道その熱病にかかると、人間の頭がおかしくなって急に気違いのようになる。そうして自分から河へ身を投げるに相違ない、とこう言うんだ。なるほど、そんなことがあるかも知れない。それでまずひと通りの理屈はわかったが、ただ判らないのは、どの人もみんな河へ飛び込むということで、もし頭が変になって自殺するならば、水へはまるには限るまい、なかには麻刈り鎌で自殺する者もありそうなものだが、みんな申し合せたようにその河に呑まれてしまう。それが僕にはまだ判らない。なんだかあのコーヒー色の水の底に、人間の知らない魔物でもひそんでいるんじゃないかとも疑われる。
医師はまたそのうたがいに対してこういう解釈を加えている。その患者は非常に熱が高くなって、殆んどからだが焼けそうに熱くなるので、苦しまぎれに水に飛び込むのだろうと……。これも一つの理屈だが、理屈はまあどうにでも付くもので、なにしろ僕は南洋の麻畑に一夜をあかして、こんな怖ろしい目に逢ったということを話せばいいのだ。ドイルの小説の猩々ならば、またそれを退治する工夫もあるだろうが、眼にみえないものではどうにも仕方がない。果たしてそれが一種の病気であるとしても、僕はやはり怖ろしい。君も勇気があるなら一度あの島へ探検に出かけちゃあどうだね。」
底本:「鷲」光文社文庫、光文社
1990(平成2)年8月20日初版1刷発行
初出:「慈悲心鳥」国文堂書店
1920(大正9)年9月
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2006年10月31日作成
2007年9月25日修正
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