片をひき裂いて、高谷君は万年筆でその用向きを書いた。原住民はそれを受取って、すぐに小舟に乗って使いに行くといった。今夜ここに泊ると決定した以上、高谷君はその附近の地理をよく見さだめて置く必要があるので、もう一度そこらを案内してくれまいかというと、丸山はこころよく承知して一緒に出た。
空はまだ明るかった。貝殻の裏を覗《のぞ》いたような白い大空が、この小さい島の上を弓形《ゆみなり》に掩《おお》って、その処々に黄や紅の斑《ふ》を打ったような小さい雲のかたまりが漂っていた。高谷君は今更のように、その美しい空の色どりを飽かずにながめた。麻畑のなかには大勢の日本人が原住民と入りまじって、麻の葉を忙がしそうに刈っているのが見えた。かれらは大きい帽子をかぶっているので、その顔はよく見えなかったが、おそらく夜の悪夢におそわれたような心持で、昼も仕事をつづけているのであろう。高谷君と丸山とのうしろには、かの勇造もついて来た。
「もう一つ判らないことがあるんですよ。」と、丸山は麻畑をぬけた時に言った。
三人の眼の前には大きい河が流れていた。その濁った水が海へそそぐであろうと、高谷君は想像した。低い堤に立って見おろすと、流れはずいぶん急で、堤の赭土《あかつち》を食いかきながら、白く濁った泡をふいて轟々《ごうごう》と落ちて行った。
丸山はステッキでその水を指さした。
「ごらんください。この河が境になって、河むこうはあの通りの藪《やぶ》になっているんです。怪物がもしあの藪から出て来るとすれば、どうしてもこの河を渡らなければならない訳ですが、ここを横切るということは容易じゃあるまいと思われるんです。人間は無論ですが、猿にしても蛇にしても、あるいは得体《えたい》の知れない猛獣にしても、この河を泳いでわたるのは大変でしょう。といって、河のこっちはもうみんな開けているので、なんにも棲んでいる筈はありません。どう考えても怪物はその河むこうに棲んでいるか、あるいは海の方から襲って来るか、この二つよりほかにありませんが、もし海から襲って来るとすれば、隣りの島へも来そうなものです。しかし原住民の話によると、隣りの島にはかつてそんな不思議はないということです。あなたのお考えで、この大きい河を渡って来るような動物がありましょうか。」
「さあ、なにしろ急流ですからね。」と、高谷君は怖ろしい秘密を包んでいるような、濁った水の流れを見つめていた。
三人はまた黙って河上の方へ遡《のぼ》って行った。空はまだ美しく輝いていたが、堤のあちらはもうそろそろ薄暗くなって来た。水の音もだんだんに静かになって来た。丸山は水を指さして、また説明した。
「ここから上流の方は水勢がよほど緩《ゆる》いんです。河底の勾配《こうばい》にも因りましょうが、もう一つには天然の堰《せき》が出来ているからです。」
ここらへ来ると、河底から大きい岩が突出していた。何百年来河上から流れてくる大木の幹や枝がその岩にせかれて重なり合って、自然の堤を築いているので、そこには大きい湖水《みずうみ》のようなものを作って、岸の方には名も知れない灌木《かんぼく》や芦《あし》のたぐいが生い茂っていた。
「この通り、ここらは流れが緩いもんですから、みんなここへ来て水を汲んだり、洗濯物をしたりするのです。遠い昔から自然にこうなっているんでしょうが、まことに都合よく出来ていますよ。」と、丸山は笑った。「第一、下流の方は水が濁っていて、とても飲料にはなりませんからね。」
勇造は如才なくバケツを用意して来ていた。かれは灌木をくぐり水ぎわへ降りて、比較的に清い水を一杯くんで来た。水の上はいよいよ薄暗くなって、一種の霧のような冷たい空気が芦の茂みから湧き出して来た。
「今夜も降るかも知れませんね。」と、勇造はバケツをさげながら空を仰いだ。三人の頭の上には、紫がかった薄黒い雲の影がいつの間にか浮かんでいた。
「むむ、今夜も驟雨《シャワー》かな。」と、丸山も空を見た。「しかし大したことはありませんよ。大抵一時間か二時間で晴れますよ。」と、かれは高谷君に言った。
それにしても驟雨が近づいたと聞いては、ここらにうろうろして居るわけにもいかないので、高谷君はもう小屋へ帰ろうと言った。
三人はもと来た堤をつたって麻畑へ出て、小屋の前へもどってくると、大勢の労働者は仕事をしまって、そこに整列していた。
「今夜も隣りへ行くのか。」と、丸山は笑いながら言った。
大勢は挨拶して河下の方へ降りて行った。さっきも話した通り、かれらは小舟でとなりの島へ泊りに行くのであると、丸山は高谷君にまた説明した。そうして、勇造に命じて夕飯の支度にかからせた。
日が暮れると果たして激しい驟雨がおそって来た。その雨のひびきを聞きながら高谷君は夕飯を食った。
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