ここらの驟雨は内地人が想像するようなものではなかった。まるで大きい瀑布《たき》をならべたように一面にどうどうと落ちて来て、この小屋も押流されるかと危ぶまれた。雨の音がはげしいので、とても談話などは出来なかった。高谷君と丸山とはうす暗い部屋のなかに向い合って、だまって煙草をすっていた。テーブルの上には蝋燭《ろうそく》の火がぼんやりと照らしていたが、それも隙間《すきま》から吹き込んでくる飛沫《しぶき》に打たれて、幾たびか消えるので、丸山もしまいには面倒になったらしく、消えたままに捨てて置いたので、小屋のなかは真の闇になってしまった。ただ時どきに二人がするマッチの光りで、主人と客とが顔を見合せるだけであった。
 となりの部屋では勇造が夕飯のあと片付けをしているらしく、板羽目《いたばめ》の隙間から蝋燭の火がちらちら揺らめいていたが、それもしまいには消えてしまったらしい。雨は小やみなしに降っていた。
「随分ひどい。今夜はいつもより余ほど長いようだ。」と、暗いなかで丸山は言った。
 高谷君はマッチをすって懐中時計を照らしてみると、今夜はもう九時を過ぎていた。この暗い風雨の夜、しかも恐ろしい怪物があらわれるとかいうこの小屋に、丸山と勇造と自分とたった三人が居残っただけで、小屋の内は愚か、この島じゅうに誰も人間らしいものは一人もいないのかと思うと、高谷君はいささか心寂しくなって来た。そのおびえた魂をいよいむ脅《おびや》かすように雷が激しく鳴り出した。
「雷が鳴れば、もうやがて止みます。」と、丸山は言った。
「この雨では怪物も出られますまい。」
「そうです。ことに雷がこう激しく鳴っては、大抵の怪物も恐れて出ないかも知れません。」
 雷はますます轟《とどろ》いて、真っ蒼な稲妻の光りが小屋のなかまで閃《ひらめ》いて来た。その光りに照らされた丸山の顔はさながら怪物のようにも見られて、高谷君は薄気味悪くなった。ふたりはまた黙ってしまった。隣りの部屋も鎮まっていた。雨はそれから二時間ほども降りつづいて、しまいには小屋のなかまで流れ込んで来たらしい。高谷君の靴の先は濡れて冷たくなって来た。雷は地ひびきがするほどに鳴った。
「あ。」と、丸山は突然に叫んだ。そうして、大きい声でつづけて呼んだ。「おい、勇造、勇造……弥坂……弥坂……。どこへ行く。」
 雷雨が激しいので、高谷君にはとても判らなかったが、風雨に馴《な》れている丸山は勇造がどこかへ出て行く足音を聞きつけたと見える。かれは頻《しき》りに勇造の名を呼んだが、隣りではなんの返事もなかった。
「この降るのに、どこかへ出たんですか。」と、高谷君は不安らしく訊いた。
「どうもそうらしい。」と、丸山は神経が亢奮《こうふん》したように言った。
 かれは突然に起ち上がってマッチの火をすりはじめた。高谷君も手伝って、ようようのことで蝋燭に火をともした。
 土間はもう三寸以上も雨水に浸されていた。ふたりはその水を渡りながら、蝋燭の火を消さないように保護してあるき出した。となりの部屋とのあいだには四尺ばかりの入口があって、簾《すだれ》代りのアンペラが一枚垂れていた。そのアンペラをかかげて隣りの部屋を覗いてみると、果たしてそこには勇造の姿がみえなかった。
「あ、やられたかな。」と、丸山は跳《おど》り上がって叫んだ。その途端に蝋燭の火は消えてしまった。
 言い知れない恐怖に襲われながら、高谷君はあわててマッチをすった。もう蝋燭をともすのももどかしいので、二人はあらん限りのマッチをすって、そこらじゅうを照らしてみたが、勇造の姿はどうしても見付からなかった。
「まだ遠くは行かない筈だ。」
 丸山は衣兜《かくし》からピストルを取出して表へ駈け出した。高谷君も用意のピストルをとって、つづいて駈け出した。しかしどっちへ行くという方角も立たないので、ふたりは雷雨のなかをうろうろしていると、蒼い稲妻がまた光って、その光りに照らされた麻畑のあいだに勇造のうしろ姿が見えた。ふたりは瀑布《たき》のような雨を衝いて麻畑のなかへまっしぐらに追って行った。稲妻が消えると、あとはもとの暗やみになってしまったので、二人は再び方角に迷ったが、勇造は堤の方へ行ったらしく思われたので、ふたりは頻りにその名を呼びつづけながら、麻畑を駈けぬけて河の岸へ出ると、雷はまた鳴った。稲妻もつづいて走った。その光りの下に勇造の姿がまたあらわれた。かれは堤から河の方へ降りて行くのである。
「弥坂君……勇造君……。」
「勇造……弥坂……。」
 喉《のど》が裂けるほどに呼びながら、ふたりは堤から駈け降りようとすると、ぬれた草に滑って丸山がまず転んだ。高谷君も転んだ。ふたりとも大きい蔓草《つるくさ》に縋《すが》ったので、幸いに河のなかへ滑り落ちるのを免かれたが、そのあいだに勇造
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